原爆投下直後の様子を記した警察官の手記
1945年8月6日の朝。当時広島県内で兵事に従事していた25歳のとある警察官は、透き通るような真夏の青空を切り裂く一閃の光とキノコ雲を目撃。直後の指令で被爆地へ救援活動に向かった。
彼はそこで二次被爆。その影響で癌となり1987年に逝去した。
彼の名は、浜田敏太。シンガーソングライター浜田省吾の父である。
父の被爆体験から、戦争や国家をテーマに社会の矛盾や問題を投げかける数々の楽曲をつくってきた浜田省吾は、ある時、中国新聞社から寄稿の依頼を受け、父が記した当時の手記を書いた。
以下、その手記を引用します。
昨年の暮れに中国新聞社の方から「広島世界平和ミッション」に寄稿を依頼され、広島で救援活動中に二次被爆した父のことを書きました。
明けて、2004年の正月に姉宅を年始で訪ねた時に、姉から「お父さんの原稿が出てきたのよ」と、これを渡され読んだ時、あまりの偶然に驚きました。
内容が父の「原爆投下の朝の体験記」だったからです。残念なことに、おそらくは長い体験談になったであろうこの原稿は、第一章までしか書かれていません。
日々の忙しさに追われ、そのままになってしまったのでしょう。
それとも、この先を書くことが精神的に困難だったのかもしれません。これを書いた当時、父は54歳で大竹署に勤務しており、定年を次の年にひかえていました。
私は18歳の予備校生で初恋やら家出やら、今思えばまさに青春していた時期でした。
そんな私も今やこの当時の父と同じ世代になり、感慨深いものがあります。この原稿は校正せず、そのままタイプしました。
途中数個所判読できない字があることをご了承下さい。
これをタイプしている今日は2004年4月30日、父の17年目の命日です。浜田省吾
◇ ◇ ◇
■原爆被爆26周年に憶(おも)う/ 大竹署 浜田敏太はじめに
あれから26年、被爆地広島市が世界平和のシンボルとして、生々発展してゆくよう心から祈ろう。
今被爆当時の記憶をペンで綴(つづ)ろうとするとき、いささか抵抗を感じるのは何故だろうか。
私だけの心の片隅に、そっとしておきたかった、それが原爆犠牲者、そして先輩、同僚の霊に対する礼であろう。
多くの体験者は静かに見守り、祈りを捧げているではないか。
そして広島市と私の体内に滲(し)みついた悪夢にも似た傷跡をかき廻すことのおろかしさと不安…さまざまなほろ苦い感情と疑問のもつれがうずまく心地がするのです。勿論文才のないことは論外としておこう!
最近各専門家によって多角的に資料が収集され、高度な文筆技術等によって広島の記録が著書「広島原爆戦災証」として近く出版されると聞いているとき、今日の記念日のできごとを瞑想しつつ、当時の記憶の一ページを一気に書きなぐってみたくなったことを了承願いたい。原爆投下の前夜
当時私は木江署(1)で兵事、労政主任をしていた。
広島市に原爆が投下された数日前だった。
広島市において、広島?隊区司令部主催による、各署の兵事主任会議が開催された。8月5日、私はこの会議の状況を各市町村役場の兵事政労関係者に急遽(きょ)伝達の使命を携えて、管内の豊島村に行き、その日は豊島駐在所に一泊させてもらった。
その晩、福山、今治市がB29の空襲を受けたのを駐在所の一室で見た。
今治市の場合は比較的距離も近いので、照明弾、続いて焼夷弾投下が繰り返され、見る間に夜空を焦がす状況が手に取るようであった。竹槍訓練や防空体制の強化叫ばれている時、
こうして毎日のように、つぎつぎと各都市が空襲の被害に見舞われていったのである。会議に出席して
翌8月6日、午前7時過ぎから豊島村役場で広島?隊区司令部の伝達会議を開催した。
8月の太陽は会場一杯に照りつけ、会場は熱っぽい空気に満ち始めたころだった。閃光一閃(せんこういっせん)!
瞬間、出席者一同が目を見張った。
雲ひとつない青空だ、稲妻でもない。
しかし、あの強烈な光ぼうは一体何だろう?
不吉な予感と憶測が入り混じり、会場内はざわめき、会議は一時中断した。
しかし会議中何事もなかったかのように会議は予定どおり終了した。原子雲を見た
続いて私は次の目的地である、御手洗町(2)に向かった。
波静かな海上を、豊島から小さな渡し舟で、大崎下島(3)に渡り、徒歩で矢?港に到着したときだった。船待客の一団が、広島方向の上空を見上げながらどよめいていたので、私は何事かと振り返ってみると、キノコ型の雲が豊島の北端山頂の青空に浮かび、むくむくと広がってゆく異様な光景を見た。
船待客は、
「ひどいこと やられたもんじゃのォ」
「こんなァ B29の爆弾ぐらいじゃぁ あがんならんよのォ」
「スパイが侵入って広島の火薬庫を爆破したんじゃろう」
「それにしても火薬庫ぐらいじゃ あがにならんじゃろう」
「火薬庫と云っても、火薬の他にもいろいろなものがあるけのォ」
「そうかのォ」
たわいもない話は繰り返された。
すると今度は、一人の船待客が付近のラジオの傍で、
「このラジオは先刻まで、大きな声で放送していたが、
ピカッと光ってから放送せんようになったんじゃ、
それが今何やら言いだしたんじゃ 」私もラジオの方に近づいて、耳を澄ましていると、
「大阪放送局、こちらは広島放送局です。聞こえますか、
聞こえたら返事をして下さい 」
と…悲痛な叫びが、かすかに繰り返され、応答を求めていたが…私は先を急いだ。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が降り注ぐ中を徒歩での山越えである。
上着を脱いだ。剣が重く、歩くのに邪魔になりはじめたので、
剣の先端に脱いだ上着を引っ掛けて、肩にかついで一路御手洗町に向かった。出動命令
午前11時頃だった。本署との連絡用務もあり、途中「大長駐在所」(4)に立ち寄った。
そこで私を待っていたのは、本署からの命令であった。
「今朝、広島がやられた、被害は甚大らしいが通信網もやられており詳細はわからない。
とにかく大崎下島在住の警防団、医師、看護婦を最大限に動員し、
君が指揮して、直ちに広島へ救援に行かれたい。」私は深く頷(うなず)いた。
駐在所をはじめ、地方の方々の積極的な応援を得て、180名に及ぶ多数の参集と救急薬品などを取り揃(そろ)えて、借り上げ船に乗り込み川尻港に向かった。広島への道は遠かった
搬送列車に乗った。海田駅が近くなった頃、車掌がやって来て、
「この列車は広島がやられたため、海田駅で折り返し運転をしておりますので、
海田駅で降りて下さい」と…。
海田駅で下車した私達救援隊は、徒歩で広島に行くしか方法が無い。
広島に近づくにつれて、破壊と混雑で行く手は遮られた。
状況判断の結果、山陽本線北側から東錬兵場に入ることに決定したのである。広島が燃えている黒煙は夕焼けに映えて、上空を覆っている。
私達救援隊は遅々として日暮れの田んぼ道を、広島へ、広島へ、黙々として歩き続けた。
中には暑さと疲労で列外組も出始めるようになった。もう広島への道は近い、しかし広島への道は遠かった。
その夜の広島で
1名の落伍者もなく、東錬兵場の広島駅裏に到着した。
そこで私達を待ちうけていたのは、生死の境をさまよう、おびただしい数の被爆者と猛火に狂う広島の夜であった。
「こりゃぁひどい、まるで生き地獄じゃのォ」と誰かがポツリと呟いた。救護本部への連絡は至難と諦め、その夜は野宿することにして、明日を待った。
隊員はみんな疲れていた。だが休んではいられない、と言い聞かせているようであった。
今まで一番バテていると思われた医師と看護婦は、必死に訴える被爆者の要求に応じて、持参した医療品を取り出して、早速救護活動にとりかかった。
殆(ほとん)どまどろみもしないで夜明けをむかえようとする姿には頭が下がった。
各救援隊員も眠れないまま、焼け爛(ただ)れた被爆者が必死に求めている水を運んでは与えた。
被爆者は水を飲んで満足そうに眠った。
そして朝、被爆者はもう起き上がらなかった。
私は合掌した。【編注】(1) 木江署(広島県豊田郡) (2)御手洗町(広島県豊田郡) (3)大崎下島(広島県豊田郡) (4)大長駐在所(広島県豊田郡)
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