脱グローバリズムの可能性をインドに探る~カースト集団の縦の統合分化と横の専門分化によって秩序化されたインド社会
「カーストが近代思想や民主主義、市場原理に対する防波堤となっているのでは?」では、次の仮説を提起した。
カーストは欧米からは差別制度として罪悪視されているが、実はインド人の共同体質⇒秩序収束⇒規範収束の表れであり、インドにおいても、近代観念と民主主義、市場原理に対する防波堤として機能しているのではないか。
今回は、カーストがインド社会の統合上、果たしている役割について紹介する。
『るいネット』「インドのカーストは職能制度でもあった」
インド人も日本人と全く同じように身分序列を職能と結びつけて社会秩序の中で庶民が役割を果たしている。カーストの特徴を紹介したい。インドが日本人よりさらに強いのはそれがヒンズー教という宗教によって固定化規範化されていたことに他ならない。カースト教ーもヒンズー教もインドの社会秩序を維持する為の装置であった事が伺える。ラージプート時代のインド社会では、ヴァルナ制度の大きな枠組みの内部で、多数のカーストが形成されつつあった。インドの伝統的な社会は、カースト間の分業体制をその基礎としていた。各カーストは、結婚・食事・職業を共通にする者たちからなる排他的集団であった。そしてインド社会は、各カーストのヨコ(分業)とタテ(身分の上下)というふたつの関係で、有機的に結合することによって成り立っていた。
例をあげると、村落社会は農業カーストとそれを取り巻く20~30のカーストからなり、それぞれのカーストに所属する者が、それぞれの役割(カーストの職業)を果たすことによって、生産活動が維持されるというしくみになっていた。また各カーストはバラモンを最高位とし、不可触民のカーストを最下位とする身分関係で結ばれており、この身分関係が、村落社会の秩序を維持していた。
カースト社会を支えていたのは、この世の生まれを業(前世の行為)の結果とみなし、カーストの義務を果たすことによって、“より良い来世”が得られるとするヒンドゥー教の教えであった。このためヒンドゥー教は、カースト制度を支える宗教として、民衆との結びつきをますます強めていった。ヒンドゥー教学もさかんとなり、8世紀には大哲学者シャンカラ(700年頃~750年頃)がでた。
カースト社会は、インドがイスラーム教徒の支配下に入って後も、安定的に存在し続けた。カースト社会の形成過程については不明な点が多いが、グプタ朝以後の数世紀の間に、古代に成立したヴァルナの枠組みの内部で多数のカーストが生み出され、社会における役割が固定化されたのではないかと想像されている。
このように、インドのカーストは単なる上下の身分制度ではなく、縦の統合分化と横の専門分化を結合させた社会統合制度である。
『るいネット』「専門分化による高度化・効率化には大きな限界がある」から、縦の統合分化と横の専門分化の統合構造を紹介する。
「専門分化した方が高度化する」というのは本当だろうか?この問題を考える上では、まず集団の分化には2種類あることを押えておかなければならない。一つは、集団の統合のためのタテの『統合分化』、もう一つは、高度化・効率化のためのヨコの『専門分化』であり、この2つは分けて考えなければならない。
この視点で人類史を見てみると、集団分化はまずタテの統合分化、次にヨコの専門分化の順で起こってきたことがわかる。集団を統合する上で、統合者は不可欠であり、従って、タテの統合分化は極限時代から存在する。それが始原人類集団を統合していたシャーマンであり、シャーマンの役割を継承したのが古代の僧侶・宗教家である。次の時代の古代国家の王や官僚も、タテの統合分化上の存在である。なお、王や官僚は私権闘争により獲得された身分でもあるため、この統合分化には集団統合の必要性だけではなく「誰にも渡さない」という権力維持の動因が働いている。
高度化のためのヨコの専門分化は、ルネサンス期の職人や芸術家から本格的に始まった。これは、より質の高いものを求める宮廷需要発である。確かに、農民のつくった茶碗よりプロがつくった茶碗の方がモノが良いのは明らかで、専門分化によって部分的な高度化・効率化が実現されるのは事実である。この宮廷発の高度化・効率化需要を足がかりにして市場が形成され、それを引き継いだ近代市場社会になると、一気に専門分化が進んでゆく。
では、こうして近代以降、専門分化が進んだ結果、どうなったか?
近代科学は、本来、無限の構成要素が連関している自然という対象をわずか数個の断片要素に分解し、研究の前提条件を限定することで専門分化した。断片化された科学知識を応用した技術は目先の生産効率を上昇させたが、近代科学はその帰結として、後戻りできないほどの地球破壊を引き起こしてしまった。
また、際限ない専門分化の結果、現在の学問の停滞に見られるように、今や学問はほとんど無価値なものに成り下がり、科学はまるで進化を停止して終ったかのような惨状を呈している。おそらく、専門分化には、分化による高度化はほぼ100年程度で飽和してしまう、という追求の限界と、これ以上分化してもむしろ効率が低下する、という細分化の限界がある。従って、専門分化により部分的な高度化・効率化が実現されるのは事実であるが、だからと云って、「トコトン専門分化を進めれば良い」と考えるのは大きな間違いであり、専門分化には大きな限界があることを知らねばならない。
とりわけ、本来「分化」と一体のものとして追求されるべき「統合」を捨象した近代の専門分化は、単なる限界を孕んでいただけではなく、致命的な欠陥を孕んでいたと見るべきだろう。
西洋の近代思想も近代科学も、共認or秩序の破壊物である自我を原点とする思想である。自我の思想に導かれた西洋の専門分化が、反共認or秩序破壊のベクトルを孕んでいるのは、そのためである。それに対して、インドの各カーストは集団として存在している。実際、カースト内の団結は強く、カーストごとの共通慣習と厳格な規範を有している。つまり、カーストにおける原点は集団であり、各カースト集団を縦の統合分化と横の専門分化によって社会全体として秩序化している。これがインド社会の構造であろう。
言い換えれば、各カーストは、それぞれの社会的な役割を果たしており、各カーストの成員もその社会的役割に収束している。インドにおいて未だカーストが根強く残存しているのは、そこに社会的な役割充足があるからだと考えられる。
その秩序化観念となっているのが、ヒンズー教である。確かに、現世の生まれは前世の業であり、カーストの役割を果たすことで、より良い来世が待っているという、ヒンズー教の輪廻転生論は、私権社会における諦めと妥協の私権観念という側面も孕んでいる。
それでも、ヒンズー教がインド社会の秩序化観念であることは疑いがない。おそらくは、ヒンズー教の世界観(宇宙の秩序or摂理)を投影したものが、カースト集団の縦の統合分化と横の専門分化によって秩序化されたインド社会なのであろう。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/08/3756.html/trackback