2008年06月03日

PRとは?

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PR:パブリック・リレーションズってどういうものなの?って言うことを調べて見ました。PRといえば以下の3名がよく出てくる人ですが、特に先駆者のアイビー・リーって人がどうしてPRというものを作ったのかを見てみたいと思います。
PRの父、アイビー・リー(1877~1934)
「世論」の著者 ウォルター・リップマン(1889~1974)
PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891~1995)
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パブリック・リレーションズを詳しく紹介している井之上ブログよりPRの父、アイビー・リーとはどのようなことをしてきたのかを引用します。

現代的意味でのパブリック・リレーションズは20世紀初頭に米国で登場したといわれています。第一回目は、その黎明期に活躍し、後に「PRの父」と呼ばれる米国の実務家、アイビー・リー(Ivy Lee)を紹介します。  
アイビー・リーは、透明性のある、正確な情報をわかりやすい言葉でパブリックに発信した最初の実務家で、コミュニケーションを通してパブリック(一般社会)との相互理解を醸成する、双方向性コミュニケーションの概念をいち早く実践した人です。この概念は、現代のパブリック・リレーションズの根幹をなす重要なもので彼の功績の大きさを物語っています。
アイビー・リーは、1877年7月16日、ジョージア州シーダータウンで、プロテスタント、メソジスト派の牧師の家に生まれました。幅広い知識と社会に強い関心を持つ家庭に育ち、父からは愛、勤勉そして道徳心や和解の技術を学び、母からは知的探究心を受け継ぎました。彼は、プリンストン大学へと進み、卒業後、New York American で警察担当記者としてスタートし、その後New York Times やthe New York World 紙でウォール街担当の記者をつとめました。
1900年代初頭は、巨大化した企業が、醜聞特だねを追いかけ暴露記事を書くジャーナリスト=マックレーカーズ(Muckrakers)や政府の規制措置から、自らの利益を守ろうと動き出した時期でした。これらの企業は、多くの場合、パブリック・リレーションズを自分たちの主張を前面に出し世論を味方につけるための手段や、企業活動に対する政治的規制強化など政府の政策変更を未然に防ぐ手段として積極的に活用しようとしていました。
このような時期、アイビー・リーはニューヨークでジョージ・パーカーと共に「パーカー&リー社」を開設しました。当時、米国で今日的なPR会社の先駆けとなったパブリシティ会社として、1900年にジャーナリストだったジョージ・ミカレス(George Michaelis)と他の2名により設立された、「パブリシティ・ビューロー社」、そして、1902年にワシントンD.C.でウイリアム・スミス(William Smith)と彼のパートナーによる、「スミス&ウオルマー社」が設立されました。「パーカー&リー社」はこれらに続いて三番目で、ニューヨークでは初めてのパブリシティ会社でした。
リーは、19世紀中ごろに活躍した、P・バーナム(Barnum)のような奇を衒った創作により新聞に面白おかしく取り上げさせるプレス・エージェントとは違った立場をとり正確性、信頼性、顧客の利益をモットーにパブリシティ業務を行ったのでした。
アイビー・リーをパブリック・リレーションズの歴史に名をとどめるきっかけを作ったその主張は、「行動規範宣言(Declaration of Principles)」とよばれ、1906年のペンシルバニアで起こった炭坑ストライキに携わった際、専門家として信頼性を高めるための職業宣言ともいえる誓約文でした。彼はこの誓約文をメディアに配布し、「自ら提供するニュースは迅速・正確そしてオープンで透明性が高い」ものとしました。
リーの主張は、”The public be damned”( =パブリックの意見は関係ない)とした企業経営者ヴァンダービルドに代表される、利益至上でパブリックを無視した企業経営が一般的であった時代におけるパブリック・リレーションズの登場を促し、新たな時代の幕開けとなったのです。
米国のPR学者であるスコット・カトリップによると、リーの行動規範宣言はこの時代としては革命的なもので、パブリック・リレーションズの発展史のなかでの大きなできごとだと述べています。
 
その信条は、「ペンシルバニア鉄道会社」 (Pennsylvania Railroad)のケースでも生かされました。列車事故の事実をひた隠す従来の企業姿勢を改め、記者たちを企業負担で事故現場に招き、企業側にマイナスとなる事実情報をも積極的に開示し必要な情報の提供に努めました。当初この方針には経営サイドからの強い反発があったものの、メディアとの関係が改善され企業に対する評価が高まるにつれ、経営者側も理解を示すようになります。
これによりリーは1912年、ペンシルバニア鉄道会社のエグゼクティブ・アシスタントとして迎えられ、PRの実務家として初めて経営に直接かかわるポジションを得ることになりました。
当時、米国企業には、事業の拡大発展過程で生ずる独占性が大きな問題となっていました。1870年、ジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller, 1839-1937)によって設立されたスタンダード・オイル・トラスト社(後のエクソン)に代表される巨大資本は、市場の独占を狙っており、ジャーナリズムはこうした大資本の行動を非難していました。
1914年、ペンシルベニア鉄道会社でのリーの功績をみていたジョン・ロックフェラー・ジュニアは、コロラド・フューエル・アンド・オイル社で起きていたストライキのメディア対応をリーに依頼しました。その翌年、ジョン・ロックフェラー・シニアとの契約も結び、ロックフェラー・ファミリーへのカウンセラーとして活躍することになります。
ロックフェラーでのリーの役割は、単なるメディアとのやり取りだけでなく、今日的な意味のダメージ・コントロールといわれる労働問題の解決や、新しいプラント建設地の選定、サプライヤーやベンダーとの契約締結など、経営に関する政策立案から実施まで広範囲に及んでいました。
この頃から、リーは、パブリックの信頼を得るには、事実に基づいた迅速なパブリシティ活動にとどまらず、企業や組織体がパブリックに有益な活動を行う必要性を考えるようになりました。
まさに彼は、さまざまなパブリックとのリレーションズ活動である現代のパブリック・リレーションズを、100年前に予見していたといえます。
アイビー・リーは、ツーウエイ・コンセプトを自ら実践し、自ら語っていましたが、それを理論体系化したのは、後に登場するエドワード・バーネーズ(Edward Bernays)でした。

PRといえば、企業や集団の広報・宣伝を担当する仕事で、それはいわば「イメージ戦略」による「世論操作」の専門職っていう理解をしていましたが、上記のアイビー・リーの発想は逆で、そんな事実が報道されない時代だからこそ真実を伝える必要があるということで取り組んでいたようです。
しかし、実際は、上記にあるように「双方向コミュニケーション」といっても、今や一方的にマスコミよる洗脳が行われているのが実体です。そのような考え方に変質させたのが、エドワード・バーネーズではないかと思います。
エドワード・バーネーズの活動について同じく井之上ブログより紹介します。
以下引用です。

20世紀初頭、自己防衛的な対応としての導入が始まったパブリック・リレーションズは、第一次世界大戦を迎えて戦費調達のための活動が中心となり、強力な説得型の手法を用いました。その概念は現代で使われているところのプロパガンダ的なもので、固定的な目標のため組織化された一方向型のプロモーション活動は、パブリック・リレーションズの発展形態としては未熟な段階にあったといえます。
その象徴的な活動ともいえるのが、17年、時の大統領ウオードロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856-1924)により設立されたパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)です。クリール委員会(Creel Committee)とも呼ばれた、ジョージ・クリール(George Creel, 1876-1953)を委員長とするその委員会は、全国的なパブリック・インフォーメーション活動を展開し、戦争活動に賛同する世論を形成する活動を行い、世論を味方につけることに成功しました。
バーネイズは18年からメンバーとしてその委員会に参加し、プレス・エージェントの経験を活かしながら世論形成の手法を学んでいきました。
クリール委員会の活動を通じて多くのプラクティショナー(実務家)を輩出し、戦後20年代のパブリック・リレーションズは黄金期とも言われる急成長期を迎えます。これらのなかにはバーネイズを始め、CPI副委員長で30年には、自らPR会社を創設し、やがて大手会社に仕立てたカール・バイヤー(Carl Byoir, 1886-1957)などの姿もありました。
バーネイズはクリール委員会の活動を通して、戦時中に使用した世論形成の手法が平常時の政治活動やビジネスにも有効であると考え、19年にはニューヨークに米国内で7番目となるパブリック・リレーションズのオフィスを設立し、パブリシストとしての道を歩み始めました。(中略)
また、アイビー・リーの「パブリックの知らされる権利」を一歩進めて「パブリックは理解されなければならない」とし、情報発信者と受信者の双方とのコミュニケーションを図るツーウェイ・コンセプトの概念を初めて紹介しました。そして、パブリックリレーションズ・カウンセル(実務家)は組織体とパブリックのメディエータの役割を果たすとの理論を展開させました。

この「パブリックは理解されなければならない」という発想そのものが、元凶ではないかと思います。要は理解できない国民をちゃんと誘導するといった高みに立ったこの発想そのものが狂っていると言わざる得ません。しかし、これも、時代背景から見ても、序列原理がきちんと働いている世界だからこそ、通用した手法だったとも読み取れます。
これからの時代にどのように手法を対応させていくのかに注目が必要ですが、このようなことが洗脳活動として利用されない事実追求のスタンスが求められると感じました。
by 背徳の掟

List    投稿者 gabor | 2008-06-03 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配4 Comments » 

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コメント4件

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