2014年08月06日

脱グローバリズムの可能性をインドに探る~カーストが近代思想や民主主義、市場原理に対する防波堤となっているのでは?

「脱グローバリズムの可能性をインドに探る プロローグ」では、インドの特徴として、次の4点が挙がっている。

【1.金貸し支配度が低いのは何故か?】
【2.自給・自治意識の高さ】
【3.観念能力の高さ】
【4.多様性を許容し、国家を成立させている統合観念はどのようなものか?】

インドの特徴には、もう一つある。カーストとヒンズー教である。

とりわけ、カーストは西欧からは身分差別制度として否定の対象となっており、インド憲法でも禁止されているにもかかわらず、カーストは根強く残存している。
法律で禁止されても、インド人はカーストに強く収束するのは何故か?その収束力の源泉に、インド人の精神性を解明する秘密があるはずである。

一方、西欧の近代思想や民主主義、市場原理と真っ向から対決しているのがイスラム教(国家)である。
西洋世界にとって不倶戴天の敵となっているカーストやイスラム教がどのような構造で成立したのか?

そこには東洋人に共通する意識構造があるはずである。
インドの可能性を探るに当たって、まず、それを明らかにしたい。

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『るいネット』「武力時代の東洋の共同体質⇒秩序収束⇒規範収束」
イスラムでは王はいないし、インドでは王がいるが形式上は神官の方が上である。(また、身分序列が確立しているからと言って、必ずしもキリスト教のような一神教になるわけではない。日本然り、インド然り。インドのバラモン教でも、シバ神などの部族連合時代の神々が生き残っている。)

イスラムとインドは何故こうなったのか? その共通項は?

ここで東洋と西洋の違いに触れておく。

6000~5000年前、イラン高原において乾燥化を契機に、最初の略奪闘争(戦争)が起こり、それが玉突き的に伝播して武力支配国家が出来上がったわけだが、その伝播ルートは二つある。一つはメソポタミア・エジプト・アラブへというルート、もう一つは中央アジア~モンゴル高原へというルート。イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥り、そこでの略奪闘争は皆殺しが常態となったが、モンゴル高原はイラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての共同体性を強く残すことになる。

インドを征服したアーリア人も「我々は神である」と言ってインド先住民を支配したわけで、大して殺戮していない。だからインド人にも共同体体質が残っている。

また、イスラムはアラビア砂漠に逃げ込んだ遊牧部族(アラビア人)である。アラビア半島の大部分は砂漠という極限環境であったがために掠奪闘争にさらされず、遊牧部族の共同体集団が残存した。結果、アラビア半島の遊牧集団たちは、武力支配国家という段階を経ずに、いきなり市場の拡大圧力にさらされることになった=市場経済が中心的な食い扶持となった。市場圧力は共同体を破壊する。つまり市場原理VS共認原理は決定的に対立する。そこで共同体原理に立脚して宗教集団の強力な規範で以って、市場原理の弊害を封鎖したのが、マホメットが創始したイスラム教である。だから、イスラム教では利息の禁止や喜捨が規定されている他、日常の生活規範までがコーランによって細かく定められているのである。

つまり、インドとイスラムの共通項は、共同体性の残存度が高いということ。イスラムは国家全体が宗教集団化し、インドは未だにバラモン教時代のカースト制度が残存している。これは、観念収束ではなく、共同体に立脚した規範収束の結果である。

共同体性を最も色濃く残しているのは日本。実は日本人にとっては身分序列は居心地が良い。実際、縄文人たちも朝鮮からやってきた支配部族に対して抵抗せずに受け容れている。それは共同体体質故に、秩序収束⇒規範収束(身分序列や生活規範)が強いからである。日本人と同様にインド人もイスラム人も、規範秩序に守られているという感覚であって、だからこそ居心地が良いのである。(西洋人はそのことを批判するが、それは彼らが共同体性を失った自我民族だからに他ならない。)

日本人・中国人・インド人・イスラム人の精神構造は、共同体質故の秩序収束⇒規範収束である。(イスラム教は唯一神を掲げてはいるが、その実態は生活の隅々にまで及ぶ規範体系である。これは儒教もそうであるが、宗教と呼ぶべきなのか、大いに疑問である)

日本人は戦前まで村落共同体が残存しており、そこでの本源共認と規範としての身分序列によって統合されてきた。そこでは観念性はほとんど見られない。先に検討した、現実共認と宗教共認の分裂は実は、西洋固有の特徴なのではないか。実際、日本人・中国人・インド人・イスラム人の精神構造は、共同体基盤に立脚した規範統合と言うべきであって、全く分裂していない。

東洋では、庶民にとって必要なのは現実の秩序共認であって、支配者として王や天皇は存在しているが、それは庶民にとってはどうでもいい存在なのではないか。単に、収束した秩序の上の方に天皇がいる。その方が精神安定的で居心地が良いので奉っているだけなのではないだろうか。イスラムやインドの神官も同様で、庶民が収束した秩序の上の方に神官がいた方が安定的なので共認されているのではないか。

言い換えれば、日本人やインド人が、国家や天皇や官僚に期待しているのは、秩序さえ安定していればそれで良いということなのではないだろうか。

社会期待としてとらえ返せば、日本人・東洋人・イスラム人は共同体体質を色濃く残存⇒安定期待⇒秩序収束⇒規範共認に収束して安定を求めるという構造である。

それに対して、救い期待に応えて一神教が登場したのは西洋特有の構造である。また、仏教も救い欠乏を土台にしており、それがインドにおいて仏教が根付かなかった理由であろう。

以上が、東洋人に残存する共同体質⇒秩序収束⇒規範収束である。

ということは、欧米からは眼の敵にされているイスラム教(規範)が、西洋の自我観念(自由・平等・個人)や民主主義、市場原理にイスラム社会が侵食されるのを防いでいるように、インドにおいても、近代観念と民主主義、市場原理に対する防波堤として機能しているのではないだろうか。

このような視点から、カーストとヒンズー教の成立構造を明らかにしてゆきたい。

List    投稿者 nihon | 2014-08-06 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配No Comments » 

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