ヴァイキング
裏で社会を操っている人たちがいるのではないかと言われることがあります。今回はその可能性のあるヴァイキング=ノルマン人について調べてみました。ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人のことを言います。初期の時点では、「ヴァイキング」と呼ばれていました。有名な話だけでも以下のようなものがあります。
現イギリス王室の開祖となったウィリアム1世は、ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノルマンディー公の系譜の一人として、ロベール1世があり、その庶子として、フランスのファレーズで生まれました。
ノルマン人すなわちヴァイキングの系譜が現イギリス王室であり、今でも裏の社会にヴァイキングの末裔がいるという説があります。
たとえば地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加し、その中には、1099年にアンティオキア公国を建国した者もいたそうです。
アイスランドに進出したノルマン人の中には、大西洋を越え、グリーンランド、アメリカ大陸(アメリカ大陸の発見)へ達する者もいたそうです。
ロシア平原(ガルダリケ)に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれます。彼らはこの地で「ノヴゴロド公国」、「キエフ大公国」を建国しました。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国のコンスタンティノポリス侵攻も行いました。ただし彼らは、商業目的も兼ねていました。また、北欧から東ローマへ赴いて傭兵となり、皇帝の親衛隊として活動したノルマン人も多くいました。
実は、13世紀までには、殆どのノルマン人は消滅し、あるいはそれぞれの国・地域に同化していったようです。
詳しく知りたい方は よろしくお願いいたします。
今回はヴァイキングのことについてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して紹介します。
【初期のヴァイキング】
西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。793年には北部イングランドのリンデスファーン修道院、795年にはヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を略奪している。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。
【 デンマークのヴァイキング】
デンマークのヴァイキングは、デーン人(Daner, Dane)と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となった。セーヌ川(Seine)河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、866年にはノーサンブリアからイースト・アングリア一帯にデーンロウが成立している。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。ノルマンディーに定住したヴァイキングはノルマン人といわれる。
【 ノルウェーのヴァイキング】
ノルウェーのヴァイキングは、ノース人(Norsemen, Norse)と呼ばれる。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。 988年にはダブリンが建設された。874年にはアイルランドのケルト人と共にアイスランドに定住を始めた。ケルト人を奴隷として連れて行ったのか、それとも対等な同志だったのかは詳らかではないが、アイスランドへはノース人の数倍の人数のケルト人を連れて行っている。さらに985年に赤毛のエイリークがグリーンランドを発見し、その息子レイフ・エリクソンは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。992年(事実は1000年)のことである。しかしグリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。 だが、交易活動も行っており人や文化の交流の橋渡しの役割も果たした。
【スウェーデンのヴァイキング】
スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラブ領土へも進出した。またリューリクがノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立としてしられ、とくに『ルーシ年代記』(邦訳は名古屋大学出版会)にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし現代では、反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。またノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらにリガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサーガ(スノッリ・ストゥルルソン「ヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアとクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。
【ヴァイキング後裔国家】
ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国やキエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当にスウェーデンから来たヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよこの一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴのポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年~1042年)と呼ばれる。ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、南イタリアに渡り、その子孫たちは後にスペインに支配されるまでノルマン朝(オートヴィル朝)シチリア王国を築くことになる。イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキングたちは、その地に根付き、王となり、貴族となり、初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神が失われてしまったのである。13世紀までには、殆どのノルマン人は消滅し、あるいはそれぞれの国・地域に同化していったのである。
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