日本が太平洋戦争まで他国に侵略されなかったのはなぜか
日本は太平洋戦争で米軍に占領されるまでは、他国に領土支配を受けることはなかった。
それどころか、江戸時代は西洋列強が大航海→帝国主義へと侵略戦争を繰り広げる中、二百数十年にわたって「鎖国」政策を実施した
しかもそれは「当時世界の最強国」であった、ポルトガル・スペインを相手に宣教師を追放し、交易も断つというもので、当然のことながら彼らを締め出す力がなくては不可能なものであった。
これに対して、日本が攻め込まれなかったのは、日本は四方を海に囲まれた島国だから、という見方がある。しかし、同じく大陸から見て最果ての地にあり、島国であるイギリスは、もともとはケルト人の国家だったが、1世紀にローマに占領され、さらにはその後ノルマン人(バイキング)に国土を占拠される。さらに近世にはネーデルランド人(ウィーザー公)に王権の簒奪を受けている。
またカリブ海のキューバは大航海の時代にスペインの植民地支配を受け、フィリピンもスペインの植民支配を受けている。インドネシアや台湾も同様である。
現に日本の歴史においても少なくとも3度侵略支配の危機があった。
一つは白村江の戦い後、唐による日本侵攻が現実化したとき。二つ目は二度にわたる元寇。三度目は大航海の時代に西洋諸国のアジア侵略である
①白村江
白村江の戦いの後、唐の侵攻を想定して、大宰府を中心に防衛体制が組まれた。
大宰府付近に二つの築城、西日本に30以上の山城。それに加えて、防人(さきもり)が動員された。動員だれたのは、当時の人口600~700万人に対して兵力20万人である。
現代の日本だと、おおむね人口一億数千万人に対して、自衛隊員は約15万人。なので、この時代の圧倒的な兵力数がわかる。
しかも動員の中心となったのが、当時の東国であり、その理由は西国に対して東国人は屈強で戦闘力があったためと言われる。
結局、唐が白村江の戦いの報復として日本に攻め込んでくることはなかったため、当時の日本軍の強さを直接図ることはできない。しかし、この時期の日本は、意外なことにかなり強大な軍事力を持っていた国と言えるだろう。
②元寇
当時の元(モンゴル)はほぼユーラシア全土を席巻していた歴史上最大級の戦闘力を持った国家である。元が最初に日本を襲来したのは1274年(文永の役)。元・高麗連合軍3万人、900隻が博多に上陸する。元を退却させたのは神風(暴風雨)であるとの俗説があるが、高麗や元側の記録によると、文永の役においては暴風雨の記述は全く見られない。襲来の時期も11月末であり台風の季節でもない。鎌倉武士たちの武器は射程距離の長い長弓と、集団戦であり、元側の記録にも「騎兵は結束す。人は即ち勇敢にして、死をみることを畏れず。」とある。
2度目の襲来は6年後の1281年、今度は15万人、4400隻の大軍であり、元も本気の攻撃であった。それに対して6年の間に20kmに及ぶ防塁を築いていた日本は、元軍を堰き止めた。防塁のない海岸から上陸することを見越し、そこに執拗なゲリラ攻撃を行った。その結果元軍は3か月にわたって上陸できず壱岐島に後退。そこに総攻撃が仕掛けられたのである。弘安の役ではその後暴風雨が襲ったのは事実ではあるが、船団全体が壊滅したわけではない。元軍は既に長期にわたって上陸できず、厭戦気分が蔓延しており、決着は時間の問題であったというのが事実であろう。
ちなみにこの際に活躍したのが佐賀の松前党をはじめとする、平安時代の海賊に端を発する「水軍」である
https://rekijin.com/?p=21559
③大航海時代
16世紀末から17世紀にかけて数多くの日本人が海外に渡っており、その数は東南アジアを中心に約10万人に上る。その中の相当数が海外で傭兵となって活躍していた。
・ポルトガルによって占領されたインドの当時の最大都市ゴアの要塞では、特に勇敢で好戦的ということで、度々襲ってくる原住民と戦う傭兵として多くの日本人が戦闘を行っていた。
・1603年にはスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、フィリピンにおける支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功し、さらに支那人への攻撃を続けている。
・シャム(タイ)では、国王の傭兵として山田長政の率いる日本人800人がスペインを撃退している。
日本は1543年に種子島に伝来した翌年に鉄砲の大量生産に成功し、その後世界最大の鉄砲保有国となり、以後200年ぐらい世界有数の武器輸出国であった
例えば16世紀末では、イギリス国の保有する銃は全体で6千挺、九州の戦国大名の竜造寺氏の保有する銃が9千挺、石山本願寺が8千挺で一国の大名や寺社の保有量がイギリス全体を上回っていた
これらから、ルイス・フロイスはイエズス会に「日本人は戦争がとても上手で強い。植民地化するのは困難だ。」と報告している。また、イエズス会のカブラルは「日本人は長らく戦乱の中に居たため、大変に勇敢だ、陸海において大変な戦力となる」と国王に報告し、日本人を雇い中国を征服しようと進言している。実際にスペインは、支那を征服するために、日本人傭兵6000人を調達しようと具体的に検討した記録があるという。
これだけの海外傭兵が多かったその背景として、戦国時代は東アジアの海は倭寇が制圧していたことがあげられる。
その後豊臣・徳川によって、倭寇は大名や幕府に服属することになるが、村上水軍の能島氏は毛利氏の家臣となり、秀吉に直接服属した来島氏は秀吉直属の大名に取り立てられて、かつての海賊衆たちは豊臣氏を頂点とした大名権力の水軍に再編された。徳川家康も今川氏、武田氏の水軍を継承して向井氏、小浜氏、千賀氏、間宮氏からなる徳川水軍を編成していた。つまり鎖国当時も日本の海軍力は保持されていた。
以上の事象より、侵略を受けなかった大きな理由が日本の防衛力にあったといっていいだろう。
そしてその要素を成すものが、長弓・鉄砲等に象徴される日本人の技術力(追求力)の高さ。集団性の強さ等があるが、もう一つ見逃せないのが海洋戦の強さである。
歴史的に日本は四方を海に囲まれており、縄文時代以来、高い航海技術を有していた。この航海技術と、船団による巧みな集団戦が防衛力に果たした要因は大きい。
それゆえに幕末に到来した黒船は、その防衛力の重要な一翼を著しく脅かすものとして大変な衝撃を与えたに違いない。
しかし他方、白村江、秀吉の朝鮮征伐、中国大陸への侵略攻めていった戦争は殆ど失敗に終わっている。防衛戦には強いが侵略戦争はいずれも失敗しているのも事実。
これも日本人の根底にある縄文体質のゆえだろうか
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