脱グローバリズムの可能性をロシアに探る④~ロシア正教は服属支配のための国家統合観念
前回の記事で見たように、9世紀後半、四方から常に他民族の侵略に脅かされていたスラヴ人は、ヴァイキングのリューリクに統治を依頼しました。その後10世紀のウラジーミルの治世下で、国家統合のために隣国のビザンツを見習ってキリスト教受容へと踏み切ります。今回は、その過程をみていきたいと思います。
◆キリスト教の受容
ビザンツやハザールとの交易を通じて豊かさを増していった古代ロシアでは、国家統合が喫緊の課題となっていた。10世紀、ウラジーミルはスラヴ族の領地を自分の権力下に保つためには、軍事力だけでは不可能だということに気付いた。キエフに君臨して間もなく、彼は異教(偶像崇拝)を利用して国家を統合しようとした。様々な異教がある中、彼はペルーン神を最高神とすることをスラヴ民族に命じた。しかし、多くの種族の神々がペルーン神より下に位置づけられることになり、その他の神を信仰していた人々の不満が高まって失敗に終わったのであった。そこで、ウラジーミル公は隣国ビザンツ帝国を見習って、キリスト教を受け容れる決心をした。ビザンツを見習ったのは東スラヴ族の領土を侵害しなかったからであり、ハザール族やブルガル族は常々侵略や略奪を試みてスラヴ人から敵視されていたからである。そのうえにビザンツ教会は、ローマ教会と異なり完全に皇帝に帰属していた。ビザンツ帝国では、皇帝の権力はほとんど無限で、教会がその力の強化に協力していた。キリスト教の受容をさらに後押ししたのは、ロシアの国際的な権威を強化するという目的だった。ヨーロッパやアジアの多くの国々はロシア人を野蛮人として見下す態度を取っており、ロシア商人はキリスト教国で様々な差別を受けていたのである。
◆洗礼
まず、988年にウラジーミル公自身が洗礼を受けると同時に、ビザンツ帝国の皇妃と結婚した。そして、ビザンツの司祭たちを引き連れてキエフに帰国すると、人々の集団洗礼を行った。ペルーン神を筆頭に、すべての異教神の偶像が川に捨てられた。キリスト教は全ルーシに広がっていったが、ノヴゴロドなどでは激しい衝突があった。教会規則が制定され教会へ大きな権力が与えられると、異端、異教の崇拝儀式等は全て犯罪として裁かれた。キリスト教を受容したことにより、国家を強め国民の日常生活と慣習を変え、文化の発展を促進した。
こうして、上から強制的に行われたキリスト教の受容、唯一神の信仰は古代ロシア国家に住む国民を結束させた。そして、古代ロシア国家の国際的な立場は本質的に変化し、ヨーロッパのキリスト教国家と同列にたつことができたのだった。
***
前回の記事で見たように、ヴァイキングたちはスラヴ人たちを皆殺しにすることなく、服属様式で支配しました。皆殺しによって集団が破壊された西ヨーロッパにおいては、大衆の救い欠乏が増大したため、現実捨象の強いカトリックが強く信仰されました。しかし、今回のスラヴのような服属支配の地域においては国家統合が至上課題となる為、国家第一(国家権力>教会権力)の正教が国家主導で広められました。ロシアにおいては服属支配で集団が残存していたが故に、救い欠乏発の西洋人に比べてその信仰心はあまり強くありません。現代のロシアでも、国民の8割が正教徒と自称していますが、実際に教会に行くのは1割程度で西洋人に比べはるかに信仰心が薄いようです。前回の記事でみたような共同体性や服属支配→国家統合という過程を見ても、ロシアはアジア的な性格を色濃く持っているように思われます。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/08/4016.html/trackback