2018年03月02日

幕末・明治維新の歴史観を見直す

歴史は、数々の出来事の表面をなぞるだけでは事実を解明することは出来ない。出来事を“作り出している”勢力が、つねに裏側にいて、彼らは決して教科書などには出てこない。

歴史を動かしているのは今も昔も市場勢力(金融や商業や諜報のネットワークを持つ勢力)である。中世ヨーロッパではサヴォイ、タクシス、デルバンコという“奥の院”と呼ばれる貴族、近世ではヴェルフ家やヘッセン家、近代においてはロスチャイルド家やロックフェラー家といった者達によって、歴史は彼らの意図に沿って動かされてきた。しかも彼らは決して歴史の表舞台に出ることなく今も存続している。(なお現在形ではサヴォイやデルバンコら奥の院は、プーチン・習近平・トランプらと組み、ドル暴落→市場システムの崩壊⇒基礎保証による新たな社会構築に向けて動いている)

日本においては古くは徐福や秦氏の商業(諜報)ネットワークが歴史を動かしてきた。天皇家(と裏で操る闇勢力)もまた例外ではない。日本はいわば一部の朝鮮由来の勢力によって古来より支配されているという認識を持つ必要がある。

以前に書いた「第二次大戦の歴史観を見直す」というエントリーは、こうした認識をもとに事実構造を明らかにしようとした。そして今回は幕末・明治維新の歴史観を見直したい。

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幕末や明治といえば、筆者は少年時代に司馬遼太郎の小説を夢中で読み、そこに書かれている志士達のヒーローのような活躍を、あたかも事実であるかのうように錯覚していた頃がある。これもまた誤った歴史認識だ。

幕末から明治維新にかけての動乱は、いわば倒幕のテロリスト達が起したクーデターであり、それを裏で操っていたのがロスチャイルドである。以下、るいネットの投稿(こちらこちら)より引用します。長くなりますがご容赦ください。

 

◆明治維新1~高杉晋作らによる尊皇→倒幕テロリズム

開国要求とは「国民と自由に貿易をさせろ」と云うことであり、開国とは「植民支配受容」である。「攘夷」とは「海外勢力を武力で追い出せ」と云う事である。

幕末の公議輿論派とは、公論や民意に基づいて政治を行おうとした人々であり、その代表が首席老中阿部正弘。
阿部は庶民からも意見を公募し、前水戸藩主徳川斎昭を幕政参与に任じ、越前藩主松平慶永と薩摩藩主島津斎彬を幕政の相談役として、全員参加の民主的挙国一致体制を確立した。
公議輿論尊重の延長線上に公武合体論、それが西洋議会制度の知識で洗練された公議政体論が生まれた。

1858年日米修好通商条約に端を発する1858年安政の大獄や1860年桜田門外の変は、水戸藩と彦根藩が将軍の継承をめぐって跡目・派閥争いをしていただけで、幕府は安泰だった。
が、この頃から、天皇を担ぎ出して幕府と対立し、日本の内戦を誘う動きが過激公家から出てきた。過激公家の「尊皇」とは、この混乱を機に幕府から権力を奪うためのスローガンである。
それに対して、公武の分裂と対立を未然に防ごうとしたのが「公武合体論」。朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である。
1862年 和宮降嫁による公武合体

この公武合体はそのまま幕権強化論(佐幕論)の一部となる。
最新式軍事技術を手に入れ迫り来る外圧に対抗すれば、攘夷も可能になり対等に外交が出来る。その為には外交窓口を幕府に一本化させる必要があり、幕府の権力を上げる必要がある。それが「 最新武装技術導入+外交窓口一本化=幕権強化論」である。実際に幕府は財政の総力を挙げ、近代型海軍を創設した。
この時点でも幕府は健在。
ここまでのスローガンは
幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国

1862年夏、上海から高杉晋作が帰国。国際金融資本の手先として長州藩を過激な倒幕運動に導く。倒幕テロリズムが始まる。(当時、上海は国際金融資本家の集合地帯であった。)

この過激派テログループと、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。
こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れる。

「尊皇」と「攘夷」は本来別モノで、尊皇の当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。孝明天皇は、倒幕派公家と過激派テロリストを危険視し、京都守護職松平容保や薩摩に命じて長州のテロリストを都から一掃した。1862年「八月十八日の政変」

1863年、長州藩は京都御所を包囲・攻撃「禁門の変」
これに激怒した孝明天皇、長州征伐の勅令「第一次長州征伐」
幕府は天皇と手を組み朝幕一体化し、幕権強化を成し遂げ、過激公家や長州藩のテロリストたちを鎮圧した。

ここまでのスローガン
幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国
公家= 尊皇+倒幕
テロ= 倒幕

高杉晋作や伊藤博文、公家三条実美たち過激派テログループがクーデターを起こし、長州藩保守派を排斥。1864年「元治の内乱」。このクーデターによって長州藩は完全に反日倒幕テロ組織、「新長州藩」となる。

藩政を掌握した高杉は下関港を開港。武器弾薬、外国製品で下関港は溢れかえった。この辺りから岩倉具視や坂本龍馬、そして薩摩の売国奴たちが一斉に動き出し、時代は風雲急を告げる。

1865年 アメリカ南北戦争終結。
南北戦争で使われた武器を二束三文で買い叩き、薩長に高値で売りさばいたのがグラバー商会であり、その手先が坂本龍馬。
その頃、薩摩のテロリストたちも動き出す。
元々、薩摩は欧米との密貿易で利益を上げていた。薩英戦争などの遺恨は色々あったように見えるが、実は薩摩は初めから英国と手を結んでいた。だから長州が「攘夷」から「開国」へ転身したところで利害が一致、ここで薩摩は「開国」の為「佐幕」を捨て、「倒幕」に変節。
薩摩は長州の武器調達のため英国を紹介した「薩長同盟」。「坂本龍馬が、薩摩と長州を結びつけた」というのは間違いで、正確には「薩摩が、英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介した」と云うのが正しい。

 

◆明治維新2~倒幕テロリストのクーデターが明治維新

1866年 第二次長州征伐、薩長同盟(薩摩は出兵拒否)。
その最中に将軍家茂が21才の若さで亡くなり、翌年には36才の若さで孝明天皇が亡くなる(死因は毒殺)。
黒船来航以来一貫して佐幕攘夷を掲げていた孝明天皇は、倒幕派公家やそれと結託した過激テロ組織らの最大の障害となっていた。

倒幕派が決起しようとした時、将軍慶喜は先手を打った。大政奉還と公議体制樹立の奏上である。
大政奉還の上奏文で、慶喜は「広く天下の公議を尽くして、天皇の御英断を仰ぎ、諸侯と同心一体となって協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の誠意である」と述べ、公議体制による国家運営を奏上。それは、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うというものであった。
大政奉還によって、公家・薩長ら倒幕勢力はクーデターの名目を失い、幕府は公儀政府となった。

ここまでのスローガン
公儀政府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 公儀+攘夷
新長州= 倒幕+開国
新薩摩= 倒幕+開国
 公家= 倒幕

しかし、新長州、新薩摩、過激公家のテログループは表向きのスローガンとして「尊皇攘夷」を掲げ、情報工作した。
岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らは、前大納言・中山忠能、前大納言・正親町三条実愛、権中納言・中御門経之らに「倒幕の密勅」を出させた。
この「密勅」は、幼帝明治天皇が関知しないところで作成された偽勅である。

さらに、岩倉具視や大久保利通らは武力クーデター計画を進め、佐幕派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王らを排除し、御所を包囲制圧し明治天皇を掌握。この時岩倉の主導で発令されたのが「王政復古の大号令」
これは天皇親政の名の下、岩倉具視一派や薩長のテロリストらが主導する新政府樹立宣言。

京都にいた将軍慶喜は旧幕府陸海軍の精鋭部隊の来援を命じ軍事的優位を確立する。外交面でも英・仏・米・蘭・独・伊の6ヶ国の行使を引見し徳川政権の正統性を諸外国に認めさせ、逆に岩倉具視や大久保利通らを追い詰める。こうして将軍慶喜は政治的挽回を果たし、巻き返しに成功した。

大政奉還によって武力倒幕の名目を失った西郷隆盛は開戦の切っ掛けを作る為、江戸で薩摩のテロリストたちに無差別テロを繰り返させ、幕府を挑発し続けた。その結果、鳥羽伏見の戦いが起きる。

近代化された幕府陸軍が優勢であったが、テロリスト側薩長陣営に「錦の御旗」が翻り、幕府軍は総崩れ。
クーデターで拘束されていた明治天皇が、テロリストたちを正規軍だと認め、正規軍であるはずの幕府軍を賊軍とみなしたのである。

将軍慶喜は徹底抗戦派らの意見を抑え、上野の寛永寺で謹慎恭順。政権はテロリスト側に移った。
幕府が戦えば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても壊滅的被害が出たであろう。それを将軍慶喜は良く分かっていた。

新政府軍は江戸城を開城させ、史料捏造を開始。
明治新政府は、政府とは別個の軍事組織である総督府を勅命で組織し、官軍を名乗り戊辰戦争という侵略戦争を開始。
この総督府には、軍令、軍政に関する一切の権限、並びに民政一般にわたる広範囲な裁量権まで与えられた。
この軍事組織である総督府は、後の植民地経営にも応用され、台湾総督府、朝鮮総督府として受け継がれる。
政府ではなく総督府が戊辰戦争を取り仕切った理由は、政府内部には慶喜に味方する意見や東征反対論があったため、政府自体が戦争指導を行うと、反対派らの意見によって戦争遂行が妨げられるから別立ての組織を整えたのである。
後の大日本帝国憲法は、この軍・政分離の仕組みを明文化したものであった。
即ち軍隊を統帥・編成し、宣戦布告や和平を結ぶ権限を天皇が独占して、議会は、予算面における関与だけで軍部をコントロールする道が閉ざされてしまったのである。

昭和に入って政治問題化した統帥権独立の議論は、帝国憲法の軍・政分離とシビリアンコントロール排除の規定に起因するものであったが、これらは、根源的には、戊辰戦争時の総督府に由来するものである。

またこのクーデターの中枢にいたのが長州藩である。長州は古くから諜報のネットワークによって自らの私権を保持し続けてきた。その核心が、幾人もの総理大臣を輩出している田布施と言える。この田布施勢力の出自等については次回扱いたい。

 

(by  ken)

 

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コメント2件

 shirogoma00 | 2018.03.03 10:18

いつも楽しく読ませていただいております。
幅広い知識・情報は勉強になります。

ただ、日本はいわば一部の朝鮮由来の勢力によって古来より支配されているという認識を持つ必要がある。
の部分は納得がいきません。
戦後のGHQの政策による戦後の日本史史観の気がします。自分は古代の朝鮮は日本文化と中国文化の境目の場所であり人口も少なかったのではと、考えています。日本からの移民(倭種)や中国からの移民とワイ族などがいる地域で。新羅や百済なども歴史が短く、日本に朝貢したり、日本人の王の時もあり。日本のように縄文から弥生とそこから天皇といった、独自文化が育った形跡もなく、百済などもシルクロードの終点である日本への中継国として栄えたのではと思います。「朝鮮由来の勢力」とは中国移民の子孫か日本移民の子孫だったと思います。

 たけ | 2018.03.04 21:34

はじめまして。以前から拝読させていただいています。

ご存知かもしれませんが1945でいいでしょうか、終戦ごもしばらく 幕府方は悪と扱われた、と亡くなった祖父母は言っていました。(ですので新撰組の時代劇等はみませんでした)
ただ昔 年末に 白虎隊というのがあって それを見て少し考えが変わってきたというか。

実際はどうだったか分りません。管理人様が言われていることが100%正しいとは限らないのは当然のことだと思いますし。
ただ教科書等にあるいは正史 として教わることは 言われるとおり私も間違っていると思います。
しばらく入院していたことがあって その時 風雲児たち 幕末編 という漫画を読んだのですが。幕府方から幕末という時代を見ているので 見方がだいぶ変わりました。
少なくとも幕府方も 時代に対応しようと必死、倒幕方も徐々に変質していっています。
(どうでもいいことですがこの漫画で一番暗躍したと表現されているのがこの方ですhttps://sokuyomi.jp/product/fuuunzitat_001/CO/26/)

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