2017年06月27日

現代の学校教育~何で本当のことを教えないのか~

安田講堂

明治に、現代の学校制度が成立してから、約150年が経ちます。

義務教育の中で私たちは読み書きそろばん、歴史や化学や、さらには規範や思想を学びます。

当然学校は厳正な公共機関で、そこで教えられる内容に嘘いつわりは無い、と信じてきました。

しかし、学校で教えることは、本当に真実なのでしょうか。

そもそも真実とは何なのでしょうか。

「学校で教わったから間違いない」という言葉は、裏を返せば好奇心や追求心を封鎖し思考停止に陥らせていると言えるのではないでしょうか。

学校が教えていることは、決して事実ばかりではありません。

その背景には、現代社会が持つ構造的な問題があり、ここに切り込まない限り本質の追求はありえません。

今回はこの点に焦点を当て、実現塾で扱われた内容を元に考えてゆきたいと思います

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 【近代科学の不整合~なんで(学校は)本当のことを教えないのか?】

 ★何で本当のことを教えないのか

→★そもそも人類がわかっていることは世界のほんの数%―人間味を失ったエリートたち

→★わかっている中でも教えないこともある→何が都合が悪いのか?

 |●資本主義は事実追求→人類の役に立つ技術が勝つ仕組みになっていない。

 |●事実追求はお上の嘘を明らかにする→体制崩壊

 ↓↓

 ★教育が無能な人間をつくるようになったのはいつから?

 |⇒次の可能性は=能力形成のための教育は?~潜在思念をどう解放する?

 ↓

 ★どうして未だに学校はなくならないの?~学歴身分の意識とその実現基盤

 →●現実の期待・必要に応える認識を追求しないと役に立てないし秩序を維持できない

 →新たな秩序の可能性はもうすでに開かれている

***

 

★いつから【教育】【学校】は無能な人間をつくるためのものになったのか?

この問題には2つの側面がある。

①根本的には、学校があってもなくても優秀なやつは優秀

江戸時代寺子屋がなくても、日本人は優秀だっただろうし、戦後も田中角栄が象徴するように学校にいかなくても優秀なやつは優秀だった。

②近代思想・科学は“豊かになりたい”という時代の要請に合っていた

この“豊かになる”“市場拡大”という時代の要請に応えてきたのが’70年までの大学だった。

’70年豊かさを実現してしまって以降、そんな必要がなくなる=近代思想・科学は無効になった。

=50年前に近代思想と近代科学を教えるだけの大学なんてなくなってしかるべきなのに、どういうわけか生き残ってきたからこんな事になっている。

学校はこんな無効になった古臭い認識を未だに教えているが、時代の要請=期待が変わった以上吸収しても役に立てない。吸収すればするほど無能になっていく。

 

 ★次の可能性は=能力形成のための教育は?

“周りの役に立つためには必要な能力”は【相手をやる気にさせる能力】【相手の気持ちを掴むための能力】etc…

今まで貧困の圧力だった最大の活力源が、 【周りの役に立つ】へと明らかに大転換した。

近代は「豊かになる」⇒近代科学・思想という 【知識】がある程度有効だったが、

“相手をやる気にさせる”“相手の気持ちを掴む”となると次元が全く違う=知識で片がつくような問題じゃない

明らかに事の本質は【観念・頭】よりもそれ以前の【体】 、顕在意識よりも潜在思念に属している

 

●今後、近未来の教育は今までの観念・知識・言葉・記号を教える以前に、肉体・潜在思念をどう鍛えるか、解放するかということになってくる。

今一番問われている事はそこ。

年々元気がなくなる子どもたちをどう元気にするかというのもそういう地平の話。

→もはや教育の世界を超えて、実際の仕事のなかで期待に応えていく方が力がつきそう。

潜在思念を鍛える上では、一つは自然のなかで過ごす。

もう一つは人間関係の中で期待をキャッチしてやり取りして磨いていくのに尽きる。

→中学くらいからアルバイトができたら有効なのでは?高校生アルバイトを見ていてもみるみる成長していく

 

●教育どうする?にも2段階ある

①根本的に学校ではないのでは?

学校以外の場にどこまで出ていって主体的に動いて関係を作っていけるか

 

②学校は現実にあるとして、その場をどうする?

学校の限界=みんなの期待にそぐわない中身+成果圧力0、同年代しかいない特殊空間

⇒どこまで教科を超えたところで自分たちで追求できるか

 

そういう意味では本当のことを教えてくれないのは何でか?というといろんなしがらみがある学校があるから

★なんで今だに50年前に無用の長物となったにもかかわらず、受験戦争ということでそこそこ頭が良い奴が我も我もと東大・京大へと必死に勉強しているのか?

=学歴が新しい【身分制度】としてあるから

庶民にとって唯一出世のチャンスを得るには学歴という身分を獲得するしかなかったという歴史がある。

学校制度は150年くらいの歴史しかないが、儒教国、特に中国・朝鮮に於いてそれは科挙制度から始まる

【学歴身分】そのものには1000~1500年という長い歴史がある

→儒教国・科挙の国である日・中・韓だけが受験戦争を繰り広げている。

●それは学歴こそが身分であるという【学歴身分】という規範・体制が根付いてしまっているから

 

●儒教も近代思想もあくまでも現実の期待・必要性に対するそれなりの答えになっていたから、それを学んだ人がTOPになったり、要職につく体制が成立していた。

そこがズレたら、そういうのを学んだ人がTOP・要職についたら社会がおかしくなるし、役に立たない→その体制自体が崩壊する

⇒●次、新しい体制・秩序を作ろうとしたら、 【現実にみんなの役に立つ中身】を学び、追求する

→それに秀でた人がTOPになり要職に就く

という事でないと秩序が維持できない

 

今は(学ぶ認識と人々の期待がずれていて)うまくいっていない現象ばかりが顕在化しているが、これは同時に新しい可能性が開けているということ

どうしていったら新しい秩序を作っていけるかというところにきている

List    投稿者 nihon | 2017-06-27 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配No Comments » 

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