民主主義は自我の暴走装置である(1)~民主主義の全否定は、私たち自身の生き方を根底から問い直す
2009年10月22日の記事「民主党の政権交代も、時事系・社会系サイトも偽ニッチである」で、ネット界の社会系サイトは反動分子であることが提起されました。
変革を期待させ大衆の勝利を思わせる政権交代という出来事も、ネット界などの時事問題派・社会派の登場も、実は偽ニッチの構造(旧世界の圧力衰弱下で、解かれた圧力から旧世界を引きずったまま暴走する少数派の構造)の中にあるのではないか。だとすると、彼らは根本的には私権反動派ということになるが、本当にそう言い切れるのか?
最も良心的で真面目に追求している時事問題系・社会系サイトでも発信の中身は、(新理論を渇望する人々の目からは)旧理論の枠内に留まっている。つまり、良心的な社会系サイトは、肉体的には共認収束しているが、頭は旧観念に支配されたままであり、旧観念に囚われたままでは反動分子にしかなり得ないと言うことだろう。
つまり、彼らは来るべき社会とは不連続であり、認識収束の潮流は、政権交代や裏情報サイトとは無関係に、もっと深い次元で進んでいくということになる。
そして、7/3なんでや劇場「『民主主義』『市民運動』という騙しとその犯罪性」で「民主主義は、自我の暴走装置である」という新たな提起がなされました。
いつも応援ありがとうございます。
『るいネット』「民主主義は、自我の暴走装置である」から転載します。
民主主義の要を成す議会が、左右いずれにせよ金融勢力の操り人形の演舞場にすぎず、これまでやってきたことが、金貸しの暴走にお墨付きを与えることだけだったとすれば、いったい民主主義とは何だったのか?
私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」etcの架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊する)」である。
人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。
まず第一に、共同体では、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
それに対して「民主主義」は、根本的かつ致命的な欠陥を孕んでいる。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。むしろ、民主主義は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにすることによって、どんどん自我を暴走させると共に、どんどん人々を無能化させてきた。
要するに、金融勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をとことん肥大化させると共に、とことん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。
かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。
以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)
人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。
全てはそこから始まる。そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。
確かに、誰もが民主主義を無前提に良いものであると思い込んでおり、それを全否定する思想など存在しませんでした。民主主義の全否定という認識が登場したのは、史上初めてだと思います。
そして、この民主主義の全否定は、それを発信する側にも受信する側にも(この認識を真摯に受け止めさえすれば)、これまでにない大きな認識転換を促すものです。
ここで思い出すのが、『るいネット』「マスコミに対する批判が、自分自身の生き方を問い直す」という投稿です。
つまりマスコミとは単なる現実の傍観者で在るばかりではなく、もっと性質の悪いことに、現実の一部を切り取ってそれを面白おかしく針小棒大に語る、三文小説的脚色家なのだ。
その三文小説的脚本家の言うことを鵜呑みにして踊っていたのが、他ならない私自身でした。新聞や学者の言説を受け売りして、それをさも自分の意見であるかのように語ることで自己満足していた。しかし、それは全て借り物であった。現実を生きている人の意識を動かすことはなかった。現実の役には立たなかった(単なる批判や解説など誰も求めていないのだ)。何事においても距離をおいて、評論家的な解説をすることで悦に入り、批判する習性がついただけだった。「実現論」も最初はそういう解説者的な(=傍観者的な)読み方をしていたのだろう。自分自身の思考が、マスコミの思考そのもの(ミニチュア)だったのだ。
だから、マスコミや学者からは、そのような思考についての反省や自覚を与えられることはなかった。このサイトに参加してようやく気づいた。既成観念の全的否定とは、批判的な思考や傍観者的な生き方を変えることなのだ。
みなさんのマスコミに対する批判は、他ならぬ自分自身に向けられたもののようにも思えます。ここで展開される批判は、単にマスコミを否定するだけではなく、この場に参加している自分自身の認識転換や成長を促してくれるような気がします。これが共認圧力、認識形成の力ではないでしょうか。
「既成観念の全的否定とは、批判的な思考や傍観者的な生き方を変えることだ」というのは、今回提起された「民主主義の全否定」にも、そのまま当てはまることですが、マスコミ批判よりもはるかに大きく深い認識転換を促すはずです。
マスコミ批判は単にマスコミを否定して終りにすることも可能です(その提起する中身を自分自身の問題として真摯に捉え返すことをしなければ)。実際、現在のマスコミ批判のほとんどがマスコミを批判するだけで終わっています。そこでは「では、どうする?」という課題は捨象されたままであって、子供でもできる否定するだけという無責任な主張にすぎません。
ところが、民主主義否定の場合は他人事のように否定するだけでは済まされません。必ず自分自身の生き方に跳ね返ってきます。
例えば、小学校のホームルームから始まって職場における会議やミーティングまで、私たちは子供の頃から何事を決めるにも、民主主義の価値観にどっぷり染まって生きてきました。そこでは、己の「発言権」や「評価権」を何より優先させる民主主義の価値観を盾に身勝手な要求を掲げて恥じない自我派・私権派がはびこり、一方では民主主義の価値観ゆえに、それら身勝手な要求を野放しにし、自我派・私権派をひたすら増長させてきた迎合派がいます。誰しもが思い当たる節があるのではないでしょうか。そこにあるのは自らの自我欠乏・私権欠乏を如何にも共認原理を装った民主的な言葉群で正当化するものです(このことを社会に広げて考えても同じで、「暴走する構造:偽ニッチ空間⇒私権絶対の法制度と圧力低減」で提起された偽ニッチ、つまり特権階級の暴走→経済危機と原発事故を生み出したのは民主主義そのものであり、暴走を許してきたのは、民主主義に染まってきた私たち自身です)。
このように、民主主義の全否定は、私たち自身の生き方を問い直しを迫る認識であって、それによって「民主主義に染まってきた自分自身は、どうする?」という課題が突きつけられます。そして、民主主義の全否定によって、人々の意識は頭の先っぽではなく心底から変わってゆく。これが「全てはそこから始まる。そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる」という提起の意味する所だと思います。 言い換えれば、民主主義の全否定によってはじめて、真っ当な共認圧力が全社会的に形成されるということです。
民主主義の全否定とは、それくらい根底的な意識転換をもたらす決定的な提起です。
従って、当ブログでは、民主主義の全否定の根拠・論拠を固めてゆきたいと思います。
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コメント3件
通りがけ | 2012.06.14 13:17
【日本国憲法70条による内閣総辞職】
増税の為の「社会保障と税の一体改革」であることが明白に・・・罪を感じない政治家たち(政経徒然草さま)
>>http://haru55.blogspot.jp/2012/06/blog-post_14.html
>予想通りというか野田首相は自民党案の「丸のみ」を決めたようだ。
野田内閣の次の総理一任は自民党提出の憲法9条改正案の丸呑みですね。
ところで野田内閣総理大臣は先の小川前法相との指揮権発動の是非について会話した内容をつい最近のことなのに「記憶にない」と公式に国会答弁しており、それが虚偽の答弁でないならば誰が見ても野田総理は記銘力喪失した重度の認知症(かつて痴呆症という病名)患者です。
これは日本国憲法70条において内閣総辞職の要件のひとつである総理大臣の職務遂行困難な病気による欠員条項(憲法70条内閣総理大臣がかけたとき)に合致しており、野田総理は直ちに入院精査して治療が必要であり病気辞任して内閣総辞職しなければなりませんね。
参考>>http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2012/06/post_2386.html#30317
入院精査して認知症ではないと診断されれば先の「記憶にない」総理答弁が偽証罪に問われ総理懲戒免職、同じく憲法70条によって内閣総辞職となります。
国会議員は直ちに職務遂行困難な重度の認知症患者である疑いが極大の野田総理を病院へ送って認知症の精密検査を受けさせねばなりません。国会審議のほうは総理ひとりが欠席しても憲法上何の影響もなく続けられますからね。
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青山繁晴氏のファンサイト・淡交 ブログ | 2012.06.14 6:22
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