アジア独立運動を裏で支えた玄洋社~玄洋社・杉山茂丸の末裔の方の回想録より
先の投稿では、戦前の日本には北進派と南進派があり、北進派には裏天皇が、南進派は天皇がその錦の御旗であったという説を紹介した。
しかし、北進派も一色ではなかったようだ。
以下は北進派の一端を担った、玄洋社の実質オーナーだったといわれる杉山茂丸の末裔の方が書かれた回想録の転載である。
・論旨をまとめると
西洋列強を前に日本は「日本によるアジア植民地化推進派」と「日本によるアジア独立運動支援派」にわかれており、玄洋社は「アジア独立運動支援派」であったが、日露戦争勝利によって「日本によるアジア植民地化推進派」が持ち上げられてから、日本は歪んでいった。
ということである。
また水戸藩の勤皇開国派の流れを汲む杉山家はユダヤとのパイプを持ち、ロシアへの防波堤として「ユダヤ人の満州移転」を支援したようだ。ところが、「日本によるアジア植民地化推進派」はその約束を反古にした。それがユダヤの反感を買い、アメリカとの戦争に発展していったという。(リンク)
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●杉山家について
私が生を受けた杉山家は、二つの大変動の中で消されていった「勤皇開国派」と「アジア独立運動支援派」に属した稀有な家のひとつです。(中略) 明治期には、曾祖父・杉山茂丸が自由民権運動から転じ、桂太郎・児玉源太郎・山縣有朋・西園寺公望・後藤新平などと交流し、日清日露戦争の影で活躍。昭和初期まで影の国家参謀として活動。一方で、高杉晋作の息子・東一や板垣退助などを支援しました。日本興業銀行設立・台湾銀行設立・東京湾・博多湾築港・関門トンネル計画などの立案を行い、孫文の辛亥革命支援(中国)やラス・ビハリ・ボース(インド)などアジア独立運動家と交わり支援を行いました。祖父・夢野久作は、茂丸の命によって日本陸軍に近衛志願兵として参加。アジア各国が独立したあとに農業指導者を養成するための農園「杉山農園」(現福岡市東区・4万6千坪)を開園。勤皇開国派の思想を基に著作活動を行いました。父・杉山龍丸は、陸軍士官学校に入学。米国との開戦に反対し東条英機暗殺計画に参加。第1期の航空技術将校として満州・フィリピンを転戦戦後は、インド支援の為に杉山農園をすべて売却し、インド国民の生活向上運動を指導しインド緑化活動などを行いました。
●杉山家が属した「勤皇開国派」とは
徳川幕府と、黒田藩の佐幕派【※尊王攘夷・討幕に反対し、幕府政策を是認・補佐した幕末党派】の人々は、尊王攘夷派の過激な人々を挑発して事件を起させ、そして、自分等の開国の責任上、最も将来障害となる、勤皇開国派の人を捕えて処断したのでした。 勤皇開国派の人々は、過激な行動や、暴力的行為が、日本の将来を開拓するとは思わず、もっと、国民生活、農業技術、経済や、国や社会の機構を改めてゆく、いわゆる経綸をもって、努力していた人々でしたが故に、捕えられても逃げかくれせず、また抵抗もしませんでした。尊王攘夷派の人々は、自ら挑発に乗って、爆発しましたが、逃亡した人が多かったようです。夢野久作は、これを非常に憎み、そして、このように従容として死についた勤王開国派の人々に限りない尊敬の念を抱いていたようでした。
それでは、勤皇開国派の人々にはどのような歴史背景があるのでしょうか? 江戸期には陽明学と朱子学がありました。陽明学とは庶民の生活の平穏を願ったものであり、朱子学とは、為政者が庶民をいかに治めるかを学ぶために起こった学問であるというのです。つまり、陽明学は庶民の側に立った学問、朱子学は、庶民を治める幕府の側に立った学問と言うことが申せましょう。そして、水戸光圀を起源とする水戸学は、陽明学の流れを汲むもののようです。その流れの中で、水戸学を学び江戸末期に活躍したのが、萩の吉田松陰、筑前の加藤司書、薩摩の西郷隆盛などです。
しかし、明治になって、徳川の城に入り、濠を深くし、国民との間を隔て天皇をとりまく連中は、外国のまねをして、昔の徳川の諸侯よりもっと俗悪な外国の貴族のまねをして堕落して行った。それは、日本の本来の姿、天皇の本質的なものを失うことになったのだと憤っていました。
陽明学の中でも、庶民の側に立ったグループがあり、それが、「勤皇開国派」で、のちの民権運動につながっていったと考えられます。
●「アジア植民地化推進派」と「アジア独立運動支援派」の協力と対立
さて、この明治初期の大変動の後、日本は二つの勢力の活動によって独立を守り続けたと考えられます。
ひとつは、富国強兵を行うとともに、西洋列強を真似て植民地を持つことにより独立を守ろうとした人々。(以下 植民地派とする)
(目先の戦争に勝ち植民地を持つことで西洋列強に日本を侮れない存在として印象づけ、簡単に攻め入ってこないようにさせたのです)
これは、西欧に留学し帰国した人々と朱子学的な考えの人々の融合体と考えられます。
二つ目は、富国強兵を行うとともに、西洋列強がアジア各地に持つ植民地に独立運動を促し、その運動を支援することによって、西洋列強が自国の植民地の叛乱を抑えることのために力をそがれ、日本を植民地にする圧力が弱まることを目的とした人々です。筑前玄洋社を中心とする人々がこれにあたります。(以下 独立支援派とする)
この人々は、陽明学、水戸学の流れをくむ人々と考えられます。
日清・日露の二つの戦争は、「西洋列強の植民地になってはならない」という同一の目的に対して、この二つの勢力が協力して臨んだことによって勝利を得られたものと考えています。すなわち、この二つの勢力の協働によって、日本は独立を守り続けることが出来たのです。
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舘ひろし | 2017.03.23 17:03
その通りです。
2つの勢力とは、秦氏と出雲族のことを指します。秦氏とは、大昔大化の改新があったころの聖徳太子や中臣鎌足のことを指します。逆に出雲族とは蘇我氏のことです。
大昔からこの2つの勢力は日本をどちらが支配するかでもめてきた勢力です。前者は「赤」「黒」後者は「青」「白」をトレードマークにしています。