2015年07月16日
安保法案だけではない。今回の憲法改正で「天皇」と「内閣総理大臣」の地位と権力が飛び抜けて向上する
今日、安保法案が衆議院を通過した。
ニュースはこちら。
いわずもがな、以前から世論の反対は大きかった。
そのため、この法案可決に向けてカモフラージュとして新国立競技場における騒動を大きくし、当日に審査委員長である安藤忠雄氏の会見をセッティングするなど世間の耳目をワイドショーに向けた。
そんな中での衆議院通過だった。
しかし、もっと大きな問題がある。
マスコミはこの安保法案については「連日報道」しているが、「憲法改正」についてはほとんど触れていない。実際に自民党は水面下で憲法改正に向けて動いている。
その内容がどのようなものであるのか、それを紹介したい。 (さらに…)
大室寅之祐は果たして南朝の末裔か?
明治天皇が田布施の大室寅之祐であることは、もう一般的に知られている。
その大室の出自について解説してあるブログから、今回はそれを紹介したい。
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大室寅之祐が南朝光良親王の末裔なんて大ウソ
田布施町長と電話で質問してみたが大室寅之祐が南朝の末裔なんて大ウソらしい。町長の祖父は昔奇兵隊に出入りしてて奇兵隊明治天皇の話は小さい頃よくきかされたそうだ。
まず大室家といっても初代は大室寅之祐の曽祖父の代から。
(初代(父)大室文右衛門)2代目(息子)大室文右衛門のころ大室家が大庄屋になり文政時代ころから注目されこのころ南朝の末裔の自称するようになった。大室文右衛門の息子は早死ししかたがないので娘のハナと大室又兵衛の息子大室弥兵衛24歳を結婚させて養子をとることにした。
大室分家から大室本家の養子にはいった大室弥兵衛が3代目を継ぎハナとの間に2人の子ができたが2人とも早死し幕末大室家は弥兵衛の代で断絶した。
時を同じく1854年に地家河内作蔵(廻船業)とスヘが離婚。作蔵が3男朝平と長女ターケを引き取りスヘが長男地家寅吉と二男地家庄吉をひきとる。1855年1月スヘは大室弥兵衛と再婚。
長男地家寅吉は大室寅吉(のちの大室寅之祐に)次男地家庄吉は大室庄吉になりスヘは弥兵衛の2号となり1年後弥兵衛とスヘの間に大室寅助が生まれるがスヘが産後のひだちわるく肺結核で死亡。(西円寺池に入水自殺とも)ここで大室家は断絶し地家作蔵の息子地家寅吉大室寅之祐がぎりの母ハナに育てられる。
その後大室寅之祐は明治維新の1868年1月15日本物の明治天皇とすりかえられる。
以下
大正天皇・・・当時は大隈重信と岩倉が権力にぎっていて大隈の子が 大正天皇になる。岩倉の子は堀川辰吉郎となって御所を追放される。
昭和天皇・・・明治天皇の子で計画出産。明治天皇の権力で作られた。
今上陛下・・・当時は三笠宮崇仁と徳川(尾張)義知が権力握ってて 三笠宮の子を明仁に。尾張義知の子を常陸宮にした。
皇太子浩宮・・・昭和天皇と岸元総理の権力で大室庄吉の孫大室近祐の孫を皇室に養子にして浩宮にした。(安倍晋三の玉)
愛子さま悠仁さま・・・日本で一番権力持ってたのが橋竜と久美子。2番目が美智子皇后と正田巌。3番目が曽野綾子。
橋本龍太郎の孫を愛子さまにした。しかし橋竜が議員辞職しなくなって橋本家がナンバー1権力者から転げ落ち美智子皇后と正田巌が日本で一番の権力者
になり美智子皇后が紀子さんに「もう男の子作っていいよ」といわれ悠仁さまをつくった。
---------引用ここまで-----------
現在、皇居には南朝の英雄である楠正成の立派な像が配されてある。これは明治になってからなのだが、この行為が田布施出自の大室の存在をごまかすカモフラージュなのかも知れない。また、裏天皇と表天皇という表裏体制を取り入れたことによる南北合作をカモフラージュするものとも考えられる。
なぜなら、大室以降の天皇は上記のように、万世一系とは決して言い難い血筋となっているからだ。
補足(るいネットより)
山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない
つまり現在の天皇家は、古来万世一系による血統を受け継いだ神聖なる皇族ではなく、欧州貴族らと同様に金貸しとして、そして金主として君臨しているだけだのではないか。
中国経済の実態を総括「新常態ー中国が直面する6つのボトルネック」2/2
前編では「世界の工場」からの転落と、大量の失業者+自給難という実態であった。
後編は地方の債務状況と経済危機である。
ー後編ー
5、『金融危機』
6、『富の分配の深刻な不公平と貧富の差の拡大』
中国産業の生産能力過剰危機は深刻であるとともに、いつ破綻してもおかしくない地方自治体の債務状況は深刻である。
ホットマネーを囲い込む意図で仕組まれた”遊水池(=不動産)”にお金が集まり、また株式市場にも流れ込んでいる。貧富の差富の偏
在は際立ったものになり、差は激しくなる一方だ。
河豚(ユダヤ)の毒がまわった旧陸軍一派~玄洋社・杉山茂丸の末裔の方の回想録より
「アジア独立運動を裏で支えた玄洋社~玄洋社・杉山茂丸の末裔の方の回想録より」に続く
日露戦争後、二つの流れはどうなっていったでしょうか?
特筆すべきことが三つあります。
一つは、日露戦争の戦勝を契機としてマスコミに煽られた人々によって、冷静な判断による戦後処理ができなかったこと。そのことによって、植民地派の機運が高まります。
二つ目は、軍部の台頭と官僚化です。日露戦争は周到な準備の下にはじめられた戦争であり、いつどのような状況で戦争を終結させるかの準備がされていました。しかし、その裏舞台は明かされることなく、多くの人々が知るところとなっていません。このことが、のちの第二次世界大戦に戦争終結の準備なく泥沼の戦争に国民を巻き込む下地となりました。
三つめは、ユダヤを敵に回したことです。