民族・集団本能を開放するには?3 ~自我を暴走・暴発させ、利用する者たち~
民族・集団本能を開放するには? 2 ~自分発・利益第一に換骨奪胎させた近代観念 ・・・現在の不整合感を顕在化させること~
の続きです。
池袋の暴走、川崎の無差別死傷事件・・・・個人の自我を暴走・暴発させた事件が続発している。当人は、相手がどう感じているかなど、人間的な感覚を失っている。
マスコミにとっては格好の報道ネタ、何度も流している。
庶民は、そういう報道を見て、警戒心を高めるしかない。他人が信じられなくなっていく。
・・・自分はここに違和感・不整合感を感じる。元々の日本人の共同性・集団的な有り様との違い。
いったい全体なんでこんなことになったか??
かっての日本は、地域の共同体や職場で吸収し、解消する素地があった。
地域の集団の中で育ち、役割も充足感も持って過ごすことが可能だったのだろう。
外国から見た江戸時代以前の日本の姿-1
★自我を暴走させるようになったのは、一体なんで?
このような事件が少しずつ起こり始めるのは、明治以降、とりわけ昭和以降と思われる。(ex八つ墓村のモデルになった津山事件)
江戸との違いは、近代的・西洋的な思想・価値観の浸透(学校教育やマスコミの登場)。地域集団の消滅・・・。
学校やマスコミ、個人や個性が第一、そのための自由や権利・・・。という形でなんども刷り込まれる。
個人や自由・権利をとことん追求したら周りの人たちとぶつかるのは当然。
人間にとって、これらの観念の持つ影響は、
>近代の活動家たちが依拠するのは、民主主義という自己正当化観念である。その結果、大衆を救おうとする素朴な願いが、民主主義という自己正当化観念を媒介にして、他者否定・自己正当化の欠乏にスリ変わってしまう。
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同様の構造が自由・平等・権利・・・などの近代観念にある。「自分の権利や自由」と思った途端、他者否定・自己正当化にスリ変ってしまう。
そして、そういうおかしな観念をバラ撒いている原因者は学校とマスコミ、学者である。
彼ら(学者・学校・マスコミ)は、自我を暴走させる元を作っているのに、知らん顔。事件が起こったら他人事のように報道し解説する。
自らの責任を問われることはない。
それどころか、報道の自由・学問の自由と言って嘯いている。
(この特権を与えているのは誰か?)
原因が野放しなのだから解決されることはない。・・・社会はますます閉塞していく。
しかし、いまやこのような構造がはっきりと分かってきた。
この事実が次第に広まっていくにつれて、彼らの存在基盤も失われていく。
市場の崩壊と軌を一にしているのが時代の変わり目を示している。
by Hiroshi
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