2014年03月15日

裏天皇の正体13~倒幕論は金貸しが仕掛けた世界青年党運動の日本版!!~

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前回は欧州における王侯貴族支配国家から金貸し支配国家へと変わる流れを段階的に追っていきました。戦争を起こし、お金で国家を支配し、民衆は思想を使って支配する。
では日本ではどのように金貸し支配が行われていったのでしょうか。
前回記事と同様に下記書評から引用

そもそもわが国要所によって「堀川政略」にいたる一大戦略を準備する必要が痛感された契機は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を取り決めた「ウィーン議定書」(1815年6月9日成立)が結ばれ、続いて同年9月26日にロシア皇帝アレクサンドル1世の呼びかけで「神聖同盟」が成立したことにあったと著者は言う。
鎖国時代のわが国にとって遙か彼方の世界の無縁な出来事と言うべき、ヨーロッパ列強間に結ばれた「神聖同盟」に対して、なにゆえにわが国要所が危機感を抱いたか。ここが「落合史観」の面目躍如たるところで、通説では例えばウィキペディアに説くように「これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった」とするが、著者は「しかしながら、神聖同盟の真の意味は、実は『欧州王室連合』の成立にあり、それは將來の『世界王室連合』を睨んだものだったのです。つまり欧州各王室の目は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです」と説くのである。そして著者に拠れば、このことをもっとも敏感に察知されたのが、第119代光格天皇(在位1779~1817)である、とする。すなわち、光格天皇に始まる危機意識の結実こそ「堀川政略」である、と見るのである。
欧州王室連合から世界王室連合への動きを捉え、これに対応する必要をわが皇室が察知されていたとするのは著者の炯眼と言うほかないが、このいわば「上からの世界戦略」と軌を一にして「下からの世界戦略」が用意されていたのではないかと疑われる節がある。それは「民衆こそ神である」と標榜したジェノヴァ人ジウゼッペ・マッチーニを宣伝塔として起用した「世界青年党運動」である。「世界青年党運動」と言っても耳慣れない言葉で、せいぜいフリーメーソンの世界革命運動で、そういえば100年後のケマル・アタチュルクによる「青年トルコ党」がトルコ革命の中核となって近代国家トルコの誕生をもたらした、というくらいの知識しかわれわれは持ち合わしていない。だが、ウィーン議定書による欧州新秩序ウィーン体制から生まれた「神聖同盟」に大英帝国が不参加だったこと、および原参加国の3国が100年後に勃発する第一次世界大戦により消滅したという史実に鑑みれば、ロンドンのシティを拠点とするフェニキア=ヴェネツィア世界権力の仕掛けた世界戦略の主眼が「世界王室連合」の結成にではなく、「世界青年党運動」の連鎖的発動にあったことは間違いない。
「世界青年党運動」は実に、英国を簒奪したヴェネツィア党が仕掛けた一大世界革命戦略であって、あまりにも巨大なその世界的広がりと規模の甚大さによって世界史の通説からすっぽりと見落とされているが、「神聖同盟」の向こうを張った「人民神聖同盟」が「青年ヨーロッパ党」として結成されたのを始め、深甚な影響をもたらした各国の例を試みに挙げてみると、「青年イタリア党」「青年スイス党」「青年コルシカ党」(マフィア同盟)「青年フランス党」「青年アルゼンチン党」「青年ボスニア党」「青年インド党」「青年ロシア党」「青年アメリカ党」「青年エジプト党」「青年チェコ党」「青年トルコ党」「青年ペルー党」……など一一挙げるのも面倒なほどで、「青年ユダヤ党」も結成され、それは「ブナイ・ブリス」(契約の子)と呼ばれることになる。
わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいまい。すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではなかろうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830~1898)に委ねられたと見るべきであろう。

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明治維新の極秘計画 落合秘史

わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいません。すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではないでしょうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ、育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830~1898)に委ねられたと見るべきです。
薩長土肥の下士たちが「薩長同盟」を中核として、いわば「青年日本」党を結成し、これが、明治維新の実行部隊となった可能性を指摘する天童は、結論として、幕末日本に「青年日本」党を誕生させて育成する役割が、オランダの改宗ユダヤ人のフルベッキに委ねられていたと推断します。委ねた者について天童は明言しませんが、ヴェネツィア党(世界秘密結社ワンワールド勢力)を指していることは文脈上明らかです。
世界中を席巻したマッツィーニの青年党運動はヴェネッツィア党(ワンワールド勢力)が世界中で一斉に仕掛けた「下からの社会改革思想」によるものであって、日本だけ例外扱いする訳はないと考えます。
そこでウラ天皇はワンワールド勢力の日本侵入に先手を打ち、予め導入しておいた青年党思想を逆利用して、国内の体制不満のガス抜きをすることでした。
いわば、「下からの改革に対する上からの対策」です。この奇策の目的は、同胞相撃つ悲劇を最小に止めながら、新しい社会体制度にむけて改革を進める為ですが、改革に必要な旧体制の破壊を避けては通れません。
欧州では、社会改革の主体がこの頃に中産階級から労働者階級に移ります。1848年2月にフランスで起こった市民革命が、欧州各地に飛び火して三月革命となり、「諸国民の春」とよばれますが、この年に欧州各地で発生した市民革命はウィーン体制を事実上崩壊させたと観られて「1848年革命」と総称されます。
鍋島藩士副島種臣の実の兄で、同じく鍋島藩士の枝吉神陽が鍋島藩に楠公義祭同盟を結成し、各藩の楠公尊崇運動の魁を成します。
伏見海外ネットワークの工作で来日したフルベッキを、長崎で待ち受けた矢野玄道の指示を受けた鍋島藩士副島種臣は彼から得た世界青年党思想を京都の矢野玄道に届けると、玄道は何と、楠公義祭同盟で枝吉神陽が唱道している楠公尊崇とこれを結びつけ、楠公精神復興運動を以て、日本流の「青年日本党」運動とすることを図ったのです。
ウラ天皇が固より青年党運動の日本への波及を憂慮したが、それは当時の日本人が未だ欧州流のテロリズムのなんたるかを知らなかったからである。
ゆえに、先手を打って欧州テロリズムを導入し、国民をしてこれに慣れさせ、自ら対応策を編み出させることにしました。
つまりウラ天皇が尊王攘夷運動を発起させ、旧体制への不満を少しずつ発散させ、大きな破壊的暴動になることを押さえ、更に欧州からの文化テロリズムに対する予行練習です。

ここまでの内容を一端整理してみましょう。
倒幕運動、薩長同盟が欧州青年党運動の日本版という落合氏の提起はその通りです。しかし、それが欧州テロリズムの侵入を防ぐ為に、裏天皇が仕組んだガス抜きという説は間違いだと考えるべきです。
下記引用は尊王=倒幕となった詳しい経緯を説明した一文です。

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285765 明治からの日本は日本では無い(3)
(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285765)

◎尊皇=倒幕
一方、高杉晋作ら過激派テログループの悲願は「倒幕」。 つまり攘夷なんかよりも、自分らが日本の政権を握ることに野心を燃やしていた。
いわば、高杉ら過激派の活動は、攘夷の邪魔にこそなれ、長州藩の思惑とはまったく関係のないところで動いていたわけである。
だからこそ、長州正規軍と高杉率いる奇兵隊は相容れず仲が悪い。
それは同年に起きた「教法寺事件」で、奇兵隊が長州正規軍を襲撃したことで表れている。
これも、そういった実情を考えれば不思議なことではない。
この過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。
いつの時代でも、世情不穏になるとその黒幕になって国家転覆を企むのは公家の伝統行事みたいなものである。
こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れることになる。
ここで確認であるが、「尊皇」と「攘夷」は本来別モノ。
「倒幕」を企むテロリストたちが、公家たちにそそのかされ掲げたのは「尊皇」、当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。
孝明天皇はこの倒幕派公家と過激派テロリストたちを危険視する。 当たり前である。

上記引用を踏まえて考えると下記のような事実が浮かび上がってきます。
幕府の攘夷論は年々高まる西欧侵略圧力に対応するために、尊王論は江戸末期から幕府体制の不安定化に対応する秩序化(社会統合)期待から登場しました。
元々は別物で共に倒幕は意図していませんでした。
その後、尊王攘夷論として合流します。それが裏天皇と幕府が形成した公武合体論(朝廷と幕府が一体となって、西欧の侵入圧力に対応する)です。当初は薩摩も公武合体論に賛成の立場でした。
一方、尊王論、攘夷論→倒幕論へ無理矢理すり替えたのが、長州過激派と倒幕派公家の一部で、共に金貸しの手先でした。次いで薩摩も公武合体論の裏天皇、幕府を裏切り、倒幕論へ転向しました。これも金貸しの指示でした。
金貸しは薩長同盟VS幕軍の内乱をけしかけ、日本支配を図りました。
裏天皇と慶喜の大政奉還で内戦を回避しましたが、内戦回避によって、明治政府内には裏天皇派と金貸し派(薩長)の対立(並立)構造は温存される結果となりました。
もともと尊王論も攘夷論も倒幕を意図したものではありませんでした。
倒幕論は1864年から金貸しの手下の長州過激派と公家が仕掛けたものです。
その倒幕論からどのようなことが起こったのか?また、それに対して天皇と裏天皇はどのような対応をしたのか?

List    投稿者 KAWA | 2014-03-15 | Posted in 03.アメリカの支配勢力と支配構造No Comments » 

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