2015年02月16日

ロシアとユダヤ人の歴史~反金貸しであっても反ユダヤ人ではないプーチン

 プーチン・ロシアと金貸しの闘いをみる上で、ウクライナという土地の歴史は非常に重要である。要するにアシュケナージ・ユダヤの憧れの地であり、もうひとつのイスラエルなのである。

リンク でも扱ったが、元駐ウクライナ大使・馬渕睦夫氏が「世界を操る支配者の正体」でもふれているので紹介したい。

ハザール王国の位置

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ウクライナの位置

ウクライナ

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黒海に突き出たクリミア半島は過去幾多の国々の興亡の歴史を見てきた。紀元前7世紀ころにはスキタイ人が住んでおり、その後、古代ギリシャ人が入植。9世紀にはカスピ海の西岸に栄えたハザール王国が一時期クリミア半島を支配下においている。13世紀には蒙古民族であるタタール人が侵入して、クリム汗国を建設した。

ハザール王国の末裔がいわゆるアシュケナージユダヤか否かは論争が続いているが、ハザール王国がユダヤ教に改宗した国であったことは史実であり、かつてクリミアにはハザール系ユダヤ人が住んでいたということが、今日に至る複雑なウクライナ情勢の深因となっている。

またロシアにとってクリミアは1783年にドイツとの戦争の結果、勝ち取った土地であり、軍港セバストポリは今も観光名所となっている、思い入れの強い土地である。

クリミアを巡る歴史はソ連時代にさらに複雑化する。ソ連の立役者の一部を担ったユダヤ人たちがクリミアをユダヤ人の自治共和国にするようにスターリンに働きかけたからだ。ユダヤ人居住区は極東、ハバロフスに近いビロビジャンがあったが、極寒の地であり、ユダヤ人の中に温暖なクリミアをユダヤ人居住区としたいとする声が強まったのだった。これを主導したのは反ファシスト・ユダヤ委員会という組織であったが、この組織が曲者で、アメリカのシオニストたちとつながっていたようだ。そのためスターリンは「クリミアにユダヤ人の国を作るのはアメリカ帝国主義の前哨をつくることになりかねない」として反ファシスト・ユダヤ委員会の要求を突っぱねた。このことは後日、フルシチョフが回想録に記している。クリミアのユダヤ人自治区構想はスターリンの反対によっていったんは挫折したが、構想そのものも完全に消えてしまったのか大変興味があるところです。

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馬渕氏は婉曲的にしか書いていないが、クリミアはアシュケナージ(白人系)ユダヤにとって、イスラエル以上に、手に入れたい聖地なのであり、それ故に、現在も、イスラエル同様、世界の紛争の震源地であり続けているのである。

しかし、歴史をもう少し、深く読み解くなら、ロシアとユダヤ人の闘いというよりも、ユダヤ人同士の闘いという面もある。

リンク

 

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日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。

10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。

そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。

それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。

ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。

その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、革命家たちはユダヤ教を信奉しない。もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。

10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。

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非常に皮肉な話だが、ユダヤ教を捨て共産主義に転向したユダヤ人はユダヤ教の信仰にこだわるユダヤ人によって排除されてしまったというのだ。

 

このようにユダヤ人も一枚岩ではない。そして今もユダヤ人同士の対立は続いている。

リンク

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▼ロシア革命以降、ユダヤ人に友好的だったレーニンの後継者スターリンは、レーニンの遺産である「国際主義」を清算するためユダヤ人=シオニズムを「社会の敵」と認定して反ユダヤキャンペーンを展開した。ソ連のプロパガンダはシオニズムを米国以上の悪魔とし、世界を支配するユダヤ人が道具として米国の帝国主義を使っていると主張した。スターリンによって高唱された伝統的な反ユダヤ主義は、ソビエト共産党の精神的支柱のひとつとなり、それは最後の書記長ゴルバチョフに至るまで継続した。プーチン政権では、エリツィン政権時代と異なりスターリン時代のいくつかの伝統や文化が復活した。プーチンはしばしば反米的姿勢をとるが、反米が反ユダヤとならない点がスターリン時代とは異なる。レーニン以降のロシア指導者で最もユダヤ問題に積極的なのがプーチンであることは数々の公式発言で明らかである。プーチンは二〇〇〇年に、少年時代を過ごしたレニングラードのアパートで、近所付き合いをしていたユダヤ人のレスリング・コーチ、アナトリー・ラクーリンを「私の人生で重要な役割を果たした人物」と評している。また二〇〇七年六月に会談したロシアのチーフ・ラビには一ヶ月分の給料をユダヤ人美術館の建設のために寄付している。

プーチン大統領は、ソ連崩壊後のどさくさに国営企業をはじめとした国家資産を簒奪したユダヤ系オリガルヒアを逮捕、追放し、一種の国家資本主義的エネルギー本位制経済を確立した。そして、エリツィン時代に膨張した西側金融機関からの借金を完済し、経済主権を回復した。最近プーチン大統領はソ連時代からイスラエルに流出した一〇〇万人を超えるユダヤ系ロシア人に帰国を呼びかけている。ハイテク産業の育成に必要なのは高度な人材である。イスラエルに出国したロシア人の中には多くの優秀な技術者や経営能力のある管理者が含まれていたという。ロシアにはロシア正教、イスラム教、ユダヤ教という三大宗教が存在し、そのガラス細工のような危うい均衡の中にあって、プーチンはユダヤ系オリガルヒアを英国に追放し、代わりの人材をイスラエルから戻そうとしている。

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ユダヤ人の中でも信仰の厚い人々は、必ずしも金融資本主義の物質主義に傾斜してしまいはしない。プーチンはオルガリヒとは対決するが、ユダヤ教の普通の人々もロシアという国を構成する大切な国民であると認識している。逆にユダヤ人差別が戦争の火種となり、軍事産業を仕切っている金貸したちを利することになることも知っている。反金貸しであっても反ユダヤ人ではない、ここがプーチンの強靭さの所以であろう。

by yama3nande

List    投稿者 mamoru | 2015-02-16 | Posted in 08.近現代史と金貸しNo Comments » 

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