日本人はどのような圧力を対象化してきたのか。
日本人の活力源は、原始共同体→村落共同体での一体充足と共認圧力(期待圧力)であったhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=365787。日本人が西洋発の私権圧力にさらされたのはせいぜい明治以降であり、活力源であった村落共同体の崩壊は、核家族化が進行した’70年以降のわずか50年にすぎない。
しかし内圧=活力は外圧とイコールで結ばれるはずである。あるいは外圧に対する闘争共認がなければ一体充足も弱い。では日本人はどのような外圧を対象化し村落共同体を維持してきたのか?
①自然外圧
日本は自然に恵まれているといわれている。しかし他方日本は災害の多い国である。とりわけ地震、火山活動が活発であり、毎年のように台風に見舞われる。いずれも規模によっては村落共同体の存亡に直結する。この災害に対する、防御、復興には村をあげての体制が必要とされた。加えて地震や火山は10年単位の災難であるのに対して、火山爆発後は火山灰によって常に土壌は劣化する、そこからの生産力回復のための土壌改良が半恒常的に必要となってくる(西日本は火山が少ないが、火山の多い東日本と九州ではとりわけそれが求められる。土壌改良に必要ななのはとりわけ灰(酸性である火山灰を中和するため)と下草である、そのための共有財産である里山の維持が求められてた。もう一つが火山が多く急勾配の山が多いことからくる、水害の多さである。この水害対策が村の協力関係と土木技術の発達をもたらしたことは言うまでもない。
②同類圧力(支配階級の圧力や戦乱圧力)
日本の村落と村落自治は、荘園制の拡大によって壊滅的な打撃を受けている。公地公民制で口分田に課せられる重税のため、逃亡する者が相次ぎ、荘園へと吸収されバラバラな土地から集まる農奴となったからだ。その後荘園から集団離脱した者たちが、製鉄技術を持つ者たちを軸に再結集し、自治村落を回復させる。
以降この再興された自治村落が単位となって、領主とのさまざまな交渉事や他の村との交渉、そして村の財産の管理や村としての警察・裁判権の執行などを担っていく。村落の意思の最高決定機関は「村人」全員(正しくは村の家々の代表各1人からなる)による「寄合」である。
この村落は時には彼等は地頭と対抗するために寺社や貴族と連合を組むこともあった。もちろん若衆中心に防衛のための武力も有していた。
つまり村落共同体が対象としていた恒常的な圧力のもう一つは支配階級(の支配圧力)や他集団の圧力であり、それらから村落共同体を守り抜くという課題であった。それは中央政権の力が弱く、戦乱が相次ぐ室町時代には、周辺の村落を統合して惣村を形成するが、それも戦乱の圧力に対抗するためである。
当時の惣村は、その内部に集落を複数抱えているのが通例であった。つまり村の連合体である。惣の中には、惣の中核的役割を果たし、「都市的な性格」をもつ中心的集落を持っているのが通例で、中心集落は、幾つかの街道が交差する地点に成立した「市」としての性格を持つ物や、「津」や「泊(とまり)」という港とそこに成立した「市」の性格をもつものであった。そしてこの都市的な性格をもつ集落=村がその周辺の農村的な性格をもつ集落=村を統合して、惣とよばれる「自治の村」を形成していた。つまり惣村とは、市や港を抱えそこに商工業者となった人々が集住する村が核となり、そこに工業原料や、農業原料(資料肥料)を生み出す共有の山林、食料や商品となる農産物や林産物・海産物を提供する周辺の村々等が結合して成り立っていたのである。一種の独立経済圏である。これが日本において都市だけでなく地方にも市場が拡大した基底要因でもある。
戦乱時のみならず江戸時代も村落自治は続く。年貢も村と領主との間の交渉によって決定されていた。村が不当な税と感じれば抗議し、時には拒否することも認められていた。江戸時代の村は武力こそ制限されていたが独立した事業体であり経済圏であるという本質を維持していたからである。
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