【日本の活力を再生する】学びをつくりなおす企業1
みなさん、こんにちは!
前回記事では集団再生⇒地域再生の切り口から2つの企業を紹介しました。
今回は、集団再生⇒学び再生の切り口から
企業(生産体)が起点となってつくる学校を紹介したいと思います。
画像引用元:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000049229.html
【なぜ、企業による学びづくりなのか】
未来の集団を担うのは今の子どもたち、だからこそ、彼らの学びを再生し、彼らを育てていく。
学びを再生する理由は、なんとなく分かりますよね。
ではなぜ、“企業による”学びづくりに焦点を当てるのか?
それは、学校制度による学びでは、もう役に立たないから。
指導要綱や5教科といった枠にはまった学びでは、子どもたちは本当の意味で育っていかないということ。
≪日本の学校教育は、考えない人間を生み出している≫
(感謝の心を育むには)
≪又、彼らの大半は、試験制度という与えられた枠組みの中でひたすら「合格」を目指してきただけで、その前提を成す枠組みそのものを疑うという発想が極めて貧弱である。従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の制度の枠組みの中で走り続けることになるが、もはやそこでは、既存の制度によって与えられた特権の維持という目的以外の目的意識など生まれようがない。≫
(序4.統合階級の暴走で失われた40年)
生産≒現実課題を軸としている「企業」が、
★これからの時代に求められる人材とは?を本気で考え、「正解のない時代を生き抜くチカラ、自分たちで問いを立て応えていくチカラ」を身に付けられる学び・学校を追求する。子どもたちの本能から湧き出る、関心、欠乏を解放させる。ここにこそ、学び再生・集団再生の可能性があるはずです。
【学び再生の2つの切り口】
新たな学びづくりには2つの切り口があると思います。
ひとつは、①社会課題や仕事課題に力点を置いた学び。
もうひとつは、②本能育成の土台づくりに力点を置いた学び。
①は、高校/大学の教育では役に立たない=社会に出ても使えないという課題意識を起点に、15歳ごろから(中学卒業ごろ)モノづくりを通して専門性に特化+社会で役立つチカラを身に付けさせる学び。
②は、義務教育の9年間が子どもの本能を封鎖させる=中学生でも既に手遅れという課題意識を発端に、幼少期から子どもたちを育て、本能育成をしていく学び。
今回は、①の学びを紹介します。
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【神山まるごと高専(https://kamiyama-marugoto.com/)】
≪15歳にしかできない新しい学びの選択肢≫
≪「神山まるごと高専が考える 21世紀の「人間力」を育てる5年制のカリキュラム」≫
≪「手を動かしてモノをつくり、それを社会に問う」それが、正解のない時代に求められる力。言い換えればそれは、どんな状況でも、どんな場所でも自分で生き抜ける力です。高いレベルの創造スキル、社会と向き合い他者と関わる力を武器に、自分の人生の舵を取る起業家としての姿勢を併せ持つ魅力的な学生が育つ場所です。≫
==========
徹底的にモノづくりという生産課題を軸にしたカリキュラムと、
多学年が集まり共に学ぶ・創る・生きることで「人間力」を育める学寮制。
高校→受験→大学という既存枠組みから抜け出し、
互いに高め合う・競い合う・闘い合うことで生まれる「問う力・応える力」。
⇒生産課題を通して現実と向き合い、同年代のなかまとモノづくりを通して関心・欠乏を高め合う。
★社会課題、そして、仕事課題が、子どもたちを育てなおす「学びの可能性」である。
高校進学、大学受験が当たり前だと思っていませんか?
既存の枠に捉われず、一歩を踏み出してみましょう!
(次回は②の子育て系の学びづくりの事例を紹介していきます!)
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nogatera | 2021.12.02 20:39
>ではなぜ、“企業による”学びづくりに焦点を当てるのか? >それは、学校制度による学びでは、もう役に立たないから。
そうですね。それは職業教育になっていないからでしょう。
>指導要綱や5教科といった枠にはまった学びでは、子どもたちは本当の意味で育っていかないということ。
そうですね。5教科の詰め込み教育だけでは現実の生活の問題にも回答が出せませんね。
>≪日本の学校教育は、考えない・・・
そうですね。試験勉強の熟達だけではその背景にある人間序列の機序は分かりませんね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせることになる。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会での励みは学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。’人を見損なってはいけない’ という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティ (考え方) を有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として日本人は存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。はっきりしません。
>従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の・・・
そうですね。我が国の教育制度は人間序列の形成にしか役立ちませんね。
>生産≒現実課題を軸としている「企業」が、>★これからの時代に求められる人材とは?を本気で考え、「正解のない時代を生き抜くチカラ、自分たちで問いを立て応えていくチカラ」を身に付けられる学び・学校を追求する。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。だから学生・学者は論文作りに精を出しますね。
矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。考えは人様々である。だから、正解は一つではない。たくさんある。
を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>子どもたちの本能から湧き出る、関心、欠乏を解放させる。 >ここにこそ、学び再生・集団再生の可能性があるはずです。
そうですね。子供たちには退屈な時間が必要ですね。そのときいろいろな考えが出て来る。
‘All work and no play makes Jack a dull boy’ は、「仕事ばかりで遊ばない。今にジャックはバカになる」といった意味になります。
>【学び再生の2つの切り口】 >新たな学びづくりには2つの切り口があると思います。 >ひとつは、①社会課題や仕事課題に力点を置いた学び。 >もうひとつは、②本能育成の土台づくりに力点を置いた学び。
>①は、高校/大学の教育では役に立たない=社会に出ても使えないという課題意識を起点に、15歳ごろから(中学卒業ごろ)モノづくりを通して専門性に特化+社会で役立つチカラを身に付けさせる学び。
モノづくりは現実の品物を作ること。考えは非現実の内容を作ること。どちらも社会にとって役に立つ大切なチカラですね。
>②は、義務教育の9年間が子どもの本能を封鎖させる=中学生でも既に手遅れという課題意識を発端に、幼少期から子どもたちを育て、本能育成をしていく学び。 >今回は、①の学びを紹介します。
>===========
>【神山まるごと高専(https://kamiyama-marugoto.com/)】 >≪15歳にしかできない新しい学びの選択肢≫ >≪「神山まるごと高専が考える 21世紀の「人間力」を育てる5年制のカリキュラム」≫ >≪「手を動かしてモノをつくり、それを社会に問う」それが、正解のない時代に求められる力。
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国の頭脳不足は人手により補われているに違いない。
>言い換えればそれは、どんな状況でも、どんな場所でも自分で生き抜ける力です。
そうですね。工夫をすればなんでもできる。最低限の力ですね。
>高いレベルの創造スキル、社会と向き合い他者と関わる力を武器に、自分の人生の舵を取る起業家としての姿勢を併せ持つ魅力的な学生が育つ場所です。≫
遠い未来の行き着く先が見えていませんね。実社会の目先手先の話ばかりではその日暮らしは避けられない。時代に流されて政治音痴になっている。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。
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>徹底的にモノづくりという生産課題を軸にしたカリキュラムと、多学年が集まり共に学ぶ・創る・生きることで「人間力」を育める学寮制。
学生時代の自治の体験は実社会に出てからの役に立ちますね。
>高校→受験→大学という既存枠組みから抜け出し、互いに高め合う・競い合う・闘い合うことで生まれる「問う力・応える力」。
臨機応変の能力が必要ですね。ただ注視しているばかりでは、無為無策と変わりありませんからね。
>⇒生産課題を通して現実と向き合い、同年代のなかまとモノづくりを通して関心・欠乏を高め合う。
現実と向き合うことは大切ですね。しかし、大人になれば非現実 (考え) と向き合うことも大切ですよ。まだ見ぬ世界を見ることも大切ですね。遠い未来に目標を定めていれば、時流に流されることもないですからね。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の ‘あるべき姿’ (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の ‘日本人12歳説’ を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は ‘現実’ 対 ‘現実’ の上下判断 (横並びの比較) になり、’どっちもどっちだ’ がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>★社会課題、そして、仕事課題が、子どもたちを育てなおす「学びの可能性」である。
そうですね。みんなで仲良く考えろ。社会の仕事が見えて来る。
>高校進学、大学受験が当たり前だと思っていませんか? >既存の枠に捉われず、一歩を踏み出してみましょう!
そうですね。’我が道を行く’ が大切ですね。既存の枠 (序列の階段) は天下の王道ではないですね。
序列社会で順位争いを続けていると、どんなにつまらない争いでも役立つことに見えて来る。これが序列人間の真のあほらしさであります。