2008年03月30日

『アメリカの共和党と民主党』9・・・アメリカ移民の歴史(1/3) :独立~1880年代

移民国家と言われるアメリカですが、その理由が分かりました 😀
アメリカは、移民を受け入れる ことで国家を維持してきたんですね

と同時に、常に激しい人種間対立 や人種間格差 が絶えず、アメリカ社会は今尚、その深い社会的亀裂を修復しきれていません
こういったアメリカの歴史を前提にすると、各人種の経緯(ルーツ)や民族性を踏まえることなしに、各政党の支持基盤を見てゆくことは出来ない ってこと

なので、今回は改めて、アメリカの移民の変遷を に おさえ直してみたいと思います

初心者のみなさん、一緒に勉強しましょう~
詳しい方は、是非コメントで補足お願いします
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アメリカ社会の現在

■ワスプ社会と民族的マイノリティ

【ワスプ社会の変容】

17世紀に西欧人の本格的殖民が始まって以降今日に至るまで、北米大陸においては、WASP文化が一貫して歴史の中心に位置してきた。
つまり、人種的にはコーカソイドであり、民族的にはアングロ・サクソンであり、宗教的にはプロテスタントである人々が、アメリカ合衆国のなかで権力の中枢を占め、政治的にも文化的にも主導権を握ってきた。
今日流通しているアングロ・サクソンという言葉は、一般にイギリスから北米大陸に移住してきた人々の子孫全体をさす言葉として使われている。
このような通常の意味での合衆国におけるアングロ・サクソンは、独立後まもない1790年の第1回国勢調査では、人口約390万人のうち60%余を占めていた。
1960年に、アイルランド系移民の子孫であるJ・F・ケネディが当選するまで、カトリック教徒で大統領選に当選するものはなかった。このこと一つをとっても、ワスプ社会の強固さが示されている。

が、1960年代以降、ワスプに同化することを余儀なくされてきた民族的少数派集団の自己主張が始まってゆく。
独立以後も、ヨーロッパ、アジア、ラテン・アメリカ等から大量の移民が流入してきた「移民の国」アメリカにおいて、ワスプはもはや絶対的多数派ではない(20世紀初頭のワスプの人口比はすでに30%台

【マイノリティ集団の台頭】

1960年代に入って台頭してきた文化的多元主義(=サラダ・ボウル論)の最大の背景には、M・L・キング牧師などの黒人指導者を中心にした公民権運動(差別撤廃運動)がある。
南北戦争→南部の敗退→南部再建の過程を経て、憲法修正第13条により、黒人奴隷制は廃止されたが、事実上、差別は公然と行われてきた。このような状況に対して、しびれを切らした黒人たちが、黒人文化の創造とその存在を強烈にアピールしたものこそ、60年代のブラック・パワーの運動であった。

レッド・パワーと呼ばれるアメリカ・インディアン諸部族もまた、60年代に入り、固有の権利の回復、民族自決を求める運動を本格的に開始し、その他、アジア系、ヨーロッパ系、メキシコ系など数多くのエスニック・グループにも、そのような動きが拡がってゆく。
このようにワスプ文化を中心とした社会的統合が崩れ始め、文化的多元主義の波に洗われているのが、今日のアメリカ社会の姿である。そして、このようなエスニック・グループの自己主張の動きは、今後、いっそう促進されるであろう。
戦後世界を支配してきた、米、ソを中心とした二極構造が崩壊し、大国中心の価値観がゆらぎ、アメリカ国内の求心力が弱まっていることが、その促進要因である。

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移民の国アメリカ

■アメリカ移民史の三区分

アメリカは移民の国である。アメリカへの移民の歴史は通常、三つの時期に区分される。
17世紀初頭以降、1780年代までの植民地時代を第一期とし、1780年代の建国期から1880年代(あるいは1890年代)までの、いわゆる「旧移民」の時代を第二期、それ以降現代に至るまでの「新移民」の時代を第三期として分ける区分法である。
ただし、この旧移民と新移民の分類法は、ただ単に時期的な区分にもとづくものではなく、ヨーロッパの出身地域による区分をも含んでいる。

旧移民と新移民は、およそ次のような諸点で性格を異にしている。

第一に、旧移民の主流が、西欧・北欧からの移民であり、アイルランド系を除けば、プロテスタント系であったのに対し、新移民の出身国は、南欧・東欧中心であり、宗教的にはカトリックやユダヤ教徒が多く、当然ギリシア正教も含まれていた。

第二に、旧移民の多くは、家族ぐるみの定住を目的とした移民であり、それゆえ、アメリカ社会への同化・融合に意欲的であったし、また新教徒である点などで、その条件にも恵まれていた。それに対し、新移民は「渡り鳥移民」などという言葉にも象徴されるように、その出稼ぎ的性格の強さゆえに、定住しても、自らのコロニーを形成し、同化しようとしない傾向がみられた。

第三に、旧・新移民の出身地域はそれぞれ、ヨーロッパにおける経済的先進地域と後進地域に対応しており、旧移民の場合、それなりの資産を有し、中西部の農村地帯に農地を求めて進出する例も少なからずあったし、技術労働に就くケースも多かった。それに対し、新移民の場合、生活程度も技術水準も教養も低く、都市の低賃金労働者にならざるを得なかった。

■植民地時代の移民(第一期)

この時代のアメリカ移民の圧倒的多くは、イギリス系である。
英仏植民地戦争でイギリスが勝利した結果、カナダからミシシッピ川に至る北米大陸東部にアングロ・アメリカ世界が形成され、そのイギリス領北米植民地からアメリカ合衆国が独立してゆくからである。
だからといって、この時期のアメリカ移民が、イギリス一色ということではない。
1790年の合衆国の第一回国勢調査によれば、総人口39.3万人のうち、出身国別の人口比率は、以下のとおりである。

      〔1790年の出身国別人口比率〕
       出身国         比率(%)
       イギリス系・・・・・・・・・・60.1 
       アイルランド系・・・・・・・9.5 
       ドイツ系・・・・・・・・・・・・8.6 
       スコットランド系・・・・・・8.1 
       オランダ系・・・・・・・・・・3.1 
       フランス系・・・・・・・・・・2.3 
       スペイン系・・・・・・・・・0.8 
       スウェーデン系・・・・・・0.7 
       不明・・・・・・・・・・・・・・6.8 
       計            100.0 

■旧移民の到来(第二期)

1820年に、連邦政府により統計がとられるようになって以来、1977年にいたる間、実に約4806万3500人余の人々が、アメリカに入国している。
そのうち、建国期から、1880年代にかけて集中的に到来したのが、北欧・西欧からの移民を中心にした、いわゆる「旧移民」である。
その最も大きな流れが、アイルランド系、ドイツ系、スカンジナビア系、イギリス系である。

      〔1870年の出身国別人口比率〕
       出身国         比率(%)
       ドイツ系・・・・・・・・・・・・30.0 
       アイルランド系・・・・・・・28.0 
       イギリス系・・・・・・・・・・19.0
       スカンジナビア系・・・・・4.0 
       その他・・・・・・・・・・・・・14.0 
       計            100.0 

【アイルランド系移民】

イギリスのアイルランドからの移民は、建国期以前からあったが、それが急増してゆくのは、1820年代からである。30年代にはさらに増え、それが40年代後半のじゃがいも飢饉以降は、アイルランドから奔流の如く移民が流入してくることになる。
当時のアイルランド人の半分を超える人々がアメリカに渡ったとされ、1820年代から19世紀末までの約80年間のアイルランド系移民の総数は、387万3000人余を数える。

アイルランド人移民のほぼすべてが、イギリス本国の政治的・経済的支配から逃れた貧農のカトリックであった。彼らは主として東部海岸のボストンなどの諸都市に居住する未熟錬士となった。
アイルランド系移民は貧しく、低賃金労働に甘んじるがゆえに、また流入民の数の多さゆえに、旧移民のなかでは、最も多く迫害の対象となった。また、その多くが、カトリック教徒であったため、しばしば反カトリック暴動の犠牲にもなった。
それゆえ、彼らはお互いの身をかばい合うようにして、同国人同士で一定の地域に集中して移住するようになる。アイルランド系移民は、こうして、東部の諸都市に集住してゆく。

迫害されながらも、彼らは徐々にアメリカ社会に融け込み、やがてマシンと呼ばれる都市の政治組織の中で力を伸ばしてゆく。マシンという都市の集票組織が、彼らが政治の世界に進出してゆく社会階梯の役目を果たした。
ケネディ家の系譜をたどれば、アイルランド系移民の社会上昇の、すべてのプロセスが明らかにされるであろう。ケネディ家の人々は、1840年代、J・F・ケネディの曾祖父の代に大西洋を渡り、ボストンのスラムの住民となった。ケネディ家は、一世紀、祖父・父・子の三代かかって、ホワイトハウスの主までのぼりつめたのである。

【ドイツ系移民】

アメリカ系移民史全体のなかで、最も数が多いのが、ドイツ系移民である。
1820年以降1977年までの、その人数は697万人余にのぼる。建国以前からドイツ系移民の流れは形成されてきたが、アイルランド系移民と同じく、1820年代から急増し、それは1850年代前半にピークを迎える。

アイルランド系移民の多くが、貧しい小作人の出で、西部に進出する資力をもたなかったのに対し、ドイツ系移民は、資産を有し、西部に進出して自営農民となる者も少なからずいた。
1850年代、ミルウォーキーは「北米におけるゲルマンのアテネ」と呼ばれ、また1908年の市政選挙で社会民主党が史上初めて市長と市議会の絶対多数派の地位を占めたことも、ドイツ系移民の存在なしにはあり得なかった。
ドイツ系移民がアメリカに容易に受け入れられたのはもう一つの理由は、イギリス系が味方の必要性を認識したことである。イギリス系は主としてプロテスタントであるドイツ系に呼びかけて、カトリックのアイルランド系を押さえ込んでゆくのに手助けするよう求める腹づもりだった。

【その他】

スカンジナビア系移民の多くは、故国の気候に似た中西部、極西部等に進出し、フロンティアの開拓に貢献するとともに、自営農民や鉱山労働者、酪農家として定住・同化していった。

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以上、植民地時代から第二期まででした 😛
後半では、アメリカ移民史の転換期ともいわれる第三期以降を見ていきます

List    投稿者 nisi | 2008-03-30 | Posted in 03.アメリカの支配勢力と支配構造6 Comments » 

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コメント6件

 がんばれ城内実(きうちみのる) | 2008.07.13 7:29

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 ふしぶじゑ日記 | 2008.07.13 16:58

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 しのぶ | 2008.07.15 1:23

EU(ヨーロッパ)って、国がたくさんあるから、今までみたいに支配するのって難しそぅ。
なのになんで次の拠点が、よりによってEUなんでしょおか?

 たっぴ | 2008.07.15 2:30

欧州中央銀行は、EUのどの国家からも拘束されない「EUのFRB」とも言える機関になりつつあるようだ。
EU紙幣を刷っているところは、欧州中央銀行なのでしょうか?それとも、各国で刷っているのでしょうか?
また、各国の中央銀行で刷っているとすれば、国際金融資本の触手はどれほど介入されているのでしょうか?
これには、様々な力学関係が働くものと思われますが・・・
なんでばかりですみません。

 italy hermes handbags | 2014.02.02 18:06

hermes transport fr 日本を守るのに右も左もない | イギリスの金融資本は、アメリカからEUへ拠点を移そうとしているのでは?

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