共認原理による社会統合・集団統合とは
私権の衰弱に伴い、私権時代の序列原理に基づく集団・社会の統合から、共認原理に基づく統合への移行が求められている。
では実際、共認原理に基づく統合とは、いかなる姿であったのだろうか?村落共同体は寄合によって統合されていたというが、「全員一致」が原則であったという。
なぜそのようなことが可能だったのか?現在の民主主義→議会制(代議制)との違いは?
以下にその実例を紹介する。
場所は対馬の漁村の伊奈という村である。
著者はそこの長老に村の古文書を借用したいと申し出てその件を寄り合いに出したらしい。1日半経って返事が来ないため、直接寄り合いの場所に出向き状況を伺った時の記述である。
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「いってみると会場の中には板間に20人ほどすわっており、外の樹の下に3人とか5人かたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情を聞いてみると村で取り決めを行う場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめは一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話し合って区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかなければ、また自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家にかえることもある。ただ、区長・総代は聞き役、まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜も昼もない。ゆうべ暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。」「私はこの寄り合いの情景が眼の底にしみついた。この寄り合い方式は近頃始まったものではない。村の申し合わせ記帳の古いものは二百年近い前のものもある。それはのこっているものだけだけどもそれ以前から寄り合いはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。
ただ、違うところは昔は腹がへったら家にたべにかえるのではなく、家から誰かが弁当を持ってきたものだそうで、それを食べて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝るものもあり、おきて話して夜を明かすものもあり、結論がでるまでそれが続いたそうである。といっても三日でだいたいの難しい話もかたがついたという。
気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得がいくまで話し合った。だから結論が出ると、それはきちんと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎり関連のある事例をとりあげていくのである。話に花が咲くとはこういう事なのである。」「論理ずくめでは収拾がつかないことも多かったと思われる。その場合はたとえ話、すなわち自分たちのあるていど体験した事にことよせて話すのが、他人にも理解してもらいやすく、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者が決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつき合わせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄り合いというものに権威があったことがよくわかる」(引用ここまで)
ここで見られる特徴は、現在の会議のように、まず「議論」したり「意見」を述べているのではないということである。自分の知る限りの関連する事柄を述べ合うのは、おそらく自分たちが置かれた状況に、皆が徹底的に同化するということなのであろう。全員がが置かれた状況に同化できさえすれば、自ずと結論は出る。そのようなスタンスである。そこでは議論や意見はむしろタブー視されているようにさえ見える。だからこそ全員一致が可能だったのである。
そしてそれが可能だったのは、村人(成員)たちが自らの置かれた状況(諸外圧や、集団内部の状況)を熟知していたからである。だからリーダー(長)の役割は、皆がどれだけ状況に同化できたかを見極めることである。
共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。(実現論序文http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=0&t=3)
翻って現在の民主主義はいかがであろうか。民主主義は「完全ではないかもしれないが、考えられる最善のシステム」だと言われている。そこで重視されるのが「発言権(意見)」と、多数決の原理である。そこでは「意見が対立する」ことが前提となっている。
しかし意見の対立が生じるのは、相互の利害や価値観(主観)の相違があるからであろう。つまり人々が私権に収束しているからである。そこでは、「皆(自分たち)」にとって何が最善かは捨象されている。
しかも、共認原理が成立するためには成員が自分たちの置かれている状況と課題を熟知している、ことが絶対条件である
しかし、現在は成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らない(知ろうとしないし、知らされない)。だからマスコミの宣伝にいとも簡単に流される。
他方江戸時代には、村々を超えた統合システムも存在した。代表たちが集まって、村同士のルールを決める「村組合議定」(現在の区程度の大きさ)、「郡中議定」(現在の府県の半分くらいの大きさ)である(詳しくはhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=281026)。ここでも全員一致が原則だが、日々顔を接している村の寄り合い以上に、数多くの集団の置かれた状況に同化できる、極めて同化能力の高い人々が贈られたと推測できる。同化能力に秀でた人々の互選でさらに上位の代表が決められるということである。
一種の代議制だが、現在の代議制とは決定的な違いがある。
現在の代議制は各段階の選挙で選ばれるが、まず選挙民は、候補者がどのような人かほとんど知らない。区議会レベルの選挙でさえ候補者を知らないし、ましてや国政レベルとなればなおさら全く知らない。従って必然的に判断は知名度=テレビへの露出度で決まってくる。都知事が青島、猪瀬、舛添、小池とテレビ系の人々で占められているのはその象徴である。
従ってマスコミ支配(マスコミを通じての金貸し支配)となるのも必然である。知らない、学ばない中での究極の多数決が現在の選挙制度≒民主主義なのである。
注目されるのは、日本においては、江戸時代まではこのような共認原理による社会統合が現に行われていたということである。
江戸時代は武家支配=幕藩体制とのみ捉えがちだが、それは武家社会のみの話であり、実際には上記の村落共同体間の社会統合が併存する二重構造であったとみた方がよい。(だからこそ、反レベルとも交渉を通じて対峙できたのであろう。「一揆とは共同体の結集」http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=300907)
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