キリスト教から出発した西欧科学が引き起こした環境破壊等は必然の帰着だった
西欧科学が狂っている理由として、自然を否定発で捉る価値観、それを出発点としている点が挙げられる。これは言わずもがなキリスト教が源流となっている。
キリスト教では、「天上は神が住まう崇高な世界」対して「地上は悪魔の世界」と定義していた。
以下の引用はすべて、ヘレン・エラーブ著『キリスト教封印の世界史』からの内容です。
キリスト教は人間を自然から遠ざけた。唯一至高神は地上のはるか彼方にいるという考えが広まると、人々は自然を敬おうとはしなくなった。キリスト教徒に言わせれば、地上は悪魔の領土でしかなかったのだ。
聖書で「地上」という言葉を使う場合は、たいてい「罪」を意味する。たとえば、『コロサイ人への手紙』にはこう書かれている。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪欲、貧欲といった偶像崇拝のごときものを捨て去りなさい。そうしたものゆえに、神の怒りが下りるのです。」 ヤコブの手紙にも、同じようなことが書かれている。「それ(ねたみや利己心)は上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」(中略)何が言いたいのかは、はっきりしている。つまり、地上は汚れている、と言いたいのだ。
今や自然は悪魔の領土となった。(中略)自然界に神はいないという考え方は、動物の扱いに影響を与えた。聖人の仲間入りをした13世紀の学者トマス・アクィナスは、こう言った。動物には、永遠の命も生まれながらの権利もなく、「創造主のまことに正しき定めによって、その生死は我らの手にゆだねられている」。動物が悪魔の手先と見なされることもよくあった。ルイス・レーゲンシュタインは、1991年に著した『地に満ちよ』のなかで、こう語っている。「今から10世紀前には、おびただしい数の動物が、裁判にかけられ、拷問され、処刑された(絞首刑が多かった)という。大々的にそれを行ったのは宗教裁判所であり、動物は悪魔の手先になりやすいから、というのがその理由だった。」
地上は悪魔が棲む場所となったキリスト教において、精霊の声を聴き集団を導いてきたシャーマンは、悪魔であり魔女となった。キリスト教が侵略した地域は例外なく精霊信仰が消えた。そして世の中で起こる自分たちにとって良くない事象はすべて悪魔・魔女の仕業によるものとなった。
何から何まで魔女のせいにされた。社会の秩序が脅かされたり、権威が揺らぎそうになったり、反乱が起きたりすると、魔女が槍玉に上げられた。当然ながら、政治や宗教の面で混乱が見られる地域は特に魔女狩りが激しかった。イタリアやスペインのような徹底したカトリック教国よりも、ドイツ・スイス・フランス・ポーランド・スコットランドといったプロテスタント諸国で盛んに行われた。魔女狩りをする者たちは、「反乱は魔術の罪だ」と声高々に訴えた。1661年、スコットランドの王党派は、「反乱は魔術を生み出す」と断言した。
宗教改革は、民衆の心を操るのに大きな役割を果たした。すっかり洗脳された人々は、自分たちにかかわる問題の責任を魔女に押しつけたのだ。プロテスタントとカトリックの改革者たちはこう説いた。魔術は罪である。
カトリックとプロテスタントの説教師は、しばしば魔女狩りをしかけた。1610年にバスク地方で恐怖の魔女狩りが起きたのは、フライ・ドミンゴ・デ・サルドが魔術の説教をした後だった。
宗教改革者に恐怖を植えつけられた民衆は、異端尋問とは無関係に自分たちの手で魔女狩りを行い、無数の者の命を奪った。
この世は恐ろしい悪魔に牛耳られていると信じ込んだ人々は、不幸に見舞われるたびに魔女を責めた。現世の邪悪はすべて悪魔が作り出したものなのだから、悪魔の手下である魔女が責めを負うのは当然というわけだ。
宗教改革によって社会が混乱状態に陥ると、魔女狩りがいっそう激しくなった。宗教改革が始まると、地域共同体(コミュニティー)の協調性よりも個人の道徳が重視されるようになった。人々は友愛の精神を失い、未亡人の扶養を担っていた封建制が崩壊すると、大勢の物乞いが生まれた。施しを与えることを拒んだ者は、自分の罪悪感をたちまち物乞いになすりつけた。つまり、その物乞いを魔女だと訴えたのだ。
自然を悪魔視したキリスト教には、始原以来のひらすら自然万物を対象化してきた人類の姿が、ない。この思想から西欧科学は出発している。
フランシス・ベーコンは当時の魔女裁判の尋問と拷問の手口を隠喩に使って自然をこう表現した。「自然は手つかずで残すよりも、人為的に(機械装置で)苦痛を与えた方が本来の性質がはっきりと現れる」「真実を追求するうちに、自然の見えない秘密が見えてくるのだ」「自然は自由を失い、奴隷となり、束縛を受けなければならない」「人間の知恵と力が一つになったとき、自然は切り裂かれ、機械と人間の手によって、それまでの姿をくずされ、押しつぶされ、型にはめこまれるだろう」
「自然を意のままに支配する」という考え方から西欧科学が成立しているのだから、環境破壊や人体破壊や精神破壊を引き起こしている現代科学技術の行き詰まりは、必然の帰着だったと言える。これらの解決は西欧科学の延長線上には「ない」ということだ。
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