2014年03月02日

金貸し支配の構造6~エリートの時代の終焉⇒大衆による集団追求の時代

「金貸し支配の構造5~エリート支配」では、エリートとは余力という特権を与えられた、金貸しの手先であることを明らかにした。
「金貸し支配の構造4~諜報機関支配とその崩壊(無能化し、分裂しつつあるCIA)」の最後に、次のような問題提起をした。

ルネサンス以来、金貸しは数万人に1人の才能を発掘してはエリートとして養成し、諜報機関や司法機関、官僚機構や議会、中央銀行や大学・マスコミといった支配機構の中枢に据えてきた。つまり、エリートとは金貸し支配の尖兵であり、その代表が米のトップエリートの集まりであるCIAである。
そのCIAのエリートたちがトコトンまで無能化しているということは、エリート支配という金貸し支配の中核が崩壊しつつあることを示唆している。

実際、CIAに限らず、超優秀なはずのエリートたちは今や無能化する一方である。このことはエリート支配という金貸し支配の中核が崩壊しつつあることを示唆している。
今回は、金貸しのエリート支配がどのようにして崩壊してきたのか?を扱う。

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【1】まず、試験制度を通じてエリートはその地位を獲得してゆくが、試験制度には大きな欠陥がある。
「大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち」
試験エリートたちは、大半が貧困=本当の私権圧力を知らず、従って本当の目的意識を持ち合わせていない。
彼らは、単なる試験制度発の「合格」という無機的な目的意識(もちろん、それは肉体的欠乏に根ざした本気の目的ではない)を植え付けられてひたすら試験勉強に励み、「特権」を手に入れた連中である。
又、彼らの大半は、試験制度という与えられた枠組みの中でひたすら「合格」を目指してきただけで、その前提を成す枠組みそのものを疑うという発想が極めて貧弱である。
従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の制度の枠組みの中で走り続けることになるが、もはやそこでは、既存の制度によって与えられた特権の維持という目的以外の目的意識など生まれようがない。

かくして、団塊世代がトップor幹部に就いた’00年以降、彼ら特権階級は、ひたすら与えられた特権を行使し、次第に「社会を動かし」「世論を動かし」ているという支配の快感に溺れてゆくようになって終った。
これは、権力の自家中毒であり、それは麻薬中毒よりももっと恐ろしい結果を社会にもたらすことになるが、もちろん彼らには、中毒患者であるという自覚はない。だから、止まらない。
それは、彼らがエリート意識に塗れて、完全に大衆とは断絶してしまったからである。
事実、人々が脱私権⇒共認収束を強めてゆく中にあって、一人、統合階級だけは、全く逆に、ひたすら私権追求と権力支配の道を驀進してきた。

しかしそれは、人々の私権欠乏が衰弱し、私権の監視圧力がほとんど働かなくなった空白地帯での進撃に過ぎなかった。言わば、誰もいなくなった空間での一人勝ちである。要するに、彼らは偽ニッチの罠に嵌ったのである。
それも知らずに支配の快感に酔いしれている姿は、もはやアホ丸出しと言うしかない。
「学歴エリートは暴走する(1)」
「学歴エリートは暴走する(2)」
「東大話法に見られる教育の失敗」
【2】もう一つ、エリートの無能化が顕在化した理由として、大衆の意識変化がある。
「金貸し勢力の弱点と自滅の構造」
彼らの最大の弱点は、数万人に1人の極少数しかいないという点にある。
これまでは、極少数でも、豊かさの実現という目的の下に大衆を収束させ統合することができた。
しかし、豊かさが実現されると、大衆は豊かさや私権の追求に代る目的をもとめて、根源回帰してゆく。そうなると、私権の追求を身上とする金貸しや悪徳エリートは、もはや、大衆を統合することができなくなってゆく。

エリートが超優秀であったのは、私権時代は大多数の大衆が頭を使わなかったからである。大衆は頭を使わず、追求するのはエリートのみ。このエリートと大衆の追求格差こそ、エリートをエリート足らしめた前提条件である。
ところが、’12年末の衆院選に始まる不正選挙の連続で、秩序崩壊の危機感から「どうする?」という意識が大衆的に顕在化し、時代は追求力の時代(追求力が制覇力となる時代)に入った。そこでは、万人が社会のために追求競争し、答を出した者が勝つ。
「時代の大転換:’13年、追求力の時代に入った」
「秩序崩壊の危機感⇒追求力の時代へ」
「本源社会前夜の時代に突入,『追求力』が制覇力となった」
「追求力を上昇させるには?」
従って、エリートと大衆の追求格差がなくなり、エリート支配の基盤が崩壊し始めた。
大衆が頭を使って考えるようになったので、それまでは顕在化しなかったエリートの無能さが透けて見えるようになった。
そして、金貸しの手先エリートたちが仕組んできた数々の騙しに、もはや大衆は騙されなくなり、脱洗脳の潮流が顕在化している。

「私たちは騙され続けてきた。しかし今や、洗脳からの脱却が始まっている」
このことから考えて、今や大衆の追求力はエリートのそれを上回っていると云ってもよい。
そして、まず、インテリ層から反金貸しに転換した。
「金貸しと悪徳エリートに止めを刺すのは?」
これまで、数万人に一人しかいない金貸し+悪徳エリートの複合勢力と大衆の間の媒介者となっていたのが、1%程のインテリ層であるが、追い詰められた金貸しと悪徳エリートが暴走をくりかえしてきた結果、インテリの過半は、既に反金貸しに移行した。こうして金貸しと悪徳エリートたちは、しだいに孤立無援の状態に追い込まれてゆく。
実際、’12年末衆院選に始まる不正選挙の連続は、インテリ層の頭を占める民主主義の破壊に他ならない。従って、不正選挙を契機として、大多数のインテリ層は金貸しとその手先エリートを見限り、反金貸しに移行したと考えられる。
社会構造的に云えば、追求力が制覇力の時代になるということは、もはや資力は制覇力ではなくなり、資力を最大の武器として社会を支配してきた金貸し支配が崩壊することと同義である。それは如何なる天才でも押し止めることはできない。
金貸しの手先エリートたちが金貸し支配を守ろうすればするほど、綻びが広がるのは当然である。つまり、崩壊過程にある金貸し支配と自らの特権を固守することしか考えてないことが、エリートが無能化し、暴走する根本原因ではないだろうか。

『自分のことしか考えていないのが無能。みんなのことを考えて追求するのが有能』
これが有能無能を分かつものなのである。
このように、金貸し支配の中核をなすエリート支配は終焉しつつある。
そして、統合階級がここまでアホだということは、大衆がいつでも彼らに取って代われる準備が整ったということを意味する。
【3】そして次代=追求力の時代とは、脱エリートの時代であり、万人が追求する時代である。そこでの追求主体は個人ではなく集団となる。集団追求の時代である。
『凡才の集団は孤高の天才に勝る--「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア』(キース・ソーヤー著 金子宣子翻訳) 
田中優子氏の書評(毎日新聞 2009年3月22日 東京朝刊)より転載。

◇日本の伝統とも共通する創造力の秘密
ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。
私はこの創造性の秘密は、日本人固有のことではなく、人間の普遍的なありようではないのかと、常々考えていた。江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張しなかったので、連による創造過程があからさまに見えるのではないだろうか。コーディネイターとして人と人をつなげながら自分の能力を発揮した人こそが、日本の文化史には残っている。
さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。江戸の連はジャズのコラボレーションに酷似している、と私も考えてきたからだ。そういう著者であるから、本書には即興演劇集団がどのようなプロセスで芝居を作ってゆくのか、ジャズセッションはどういう過程をたどるのか、著者自身の詳細な記録に基づいて述べられている。それと全く同次元で、ポスト・イット(付せん)がどう生まれたか、ATMやモールス信号がどのように発明されたかを書いているのが面白い。
そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。
江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。
本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。
本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。
日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。

「自給期待と日本の近未来13 追求力を上昇させるには?」では、
追求力の源泉はみんな期待に深く同化することであり、追求力の時代とは集団の時代であることが提起されている。
つまり、極一握りの天才やエリートだけが追求するのではなく、万人が集団で追求し社会を作る。追求力の時代とは、そういう時代である。
言い換えれば、大衆から隔絶したエリート(社会統合のプロ)が追求するのではなく、社会統合の素人である大衆が集団を母胎として追求を重ねる。そういう時代が到来しているのである。

「素人と創造」
本当の創造は、素人が担ってきた(言葉を作ったのも、火を使ったのも、弓矢や舟を作ったのも、栽培や飼育を始めたのも、銅や鉄を精錬したのも、また壁画を描いたり、工芸品を作ってきたのも素人である)。真に偉大な思想(統合観念)を創ったのも素人であって、専門の神官や学者が、真に新しい価値を作り出した例は極めて少ない。実現論も又、素人が創ったものである。
「創造(=探求)のパラダイム転換」
現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。
「素人こそ創造者(論点の整理)」
実現の時代、現実を対象化する為には、現実の真っ只中に居なければならない。現実の真っ只中に居る者、それこそが素人であり、従って、素人こそ真の創造者である。
潜在思念こそ探求(創造)の生命であり、潜在思念(⇒とその行動)の共認こそ共認の生命である。
従って(直ちに行動できない現在)、素人の探求過程での潜在思念(⇒とその表出)のやりとりこそ、創造の漁場(狩場)であり、その場こそがるいネット(の会議室)である。
さらに云えば、『凡才の集団は孤高の天才に勝る--「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア』(キース・ソーヤー著 金子宣子翻訳)では、江戸時代の創造グループ「連」を事例に挙げているが、このことは、集団追求の時代に適しているのは、権力体ではなく共同体であることを示唆しているのではないだろうか。

List    投稿者 staff | 2014-03-02 | Posted in 08.近現代史と金貸しNo Comments » 

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