「どうする?マスコミ支配13」 第一権力化したマスコミ その凋落と背後
まず、るいネットの投稿「マスコミの第一権力化」をご紹介します。
確かに生存圧力の克服によって人々は序列原理の圧力から解放され、マスコミと政治家の力関係が逆転していったでしょう。特に戦前ともなると、「御用新聞」などと言う言葉が示すとおり、新聞は政治家の子飼いの言論機関であり、親で有る政治家を養護することはあっても、批判することなど無かったでしょう。
1.御用新聞の黎明期
朝日新聞(Wikipedia)
「まず創刊期には、参議伊藤博文らが参議大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裡に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた。そしてその間に東京の「めさまし新聞」を買収して「東京朝日新聞」を創刊し、東京進出を果たした。さらに日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。
大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を批判。寺内正毅内閣期には、同内閣だけでなく、鈴木商店を米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃して米騒動を煽り、鈴木商店は焼き討ちにあった(白虹事件を参照)。しかしこの事件を再調査した城山三郎によれば、当時、鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き討ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行ったことによる「風評被害」で、鈴木商店と対立していた三井と朝日の「共同謀議」という仮説を立てている。
第一次世界大戦後は軍縮支持、シベリア出兵反対、普通選挙実施を主張していたこともあった。満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、特に太平洋戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行う。そして終戦後、社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん」(1945年11月7日)を発表して、路線転換する。ただ、終戦後の「転向宣言」や社説だけでもって、単純に社の性格を規定することはできない。また、2006年12月9日の社説「開戦65年 狂気が国を滅ぼした」内での「無謀な戦いを止められなかった無力を思うと」といった、自らが戦争を賛美・先導していた立場にもかかわらず、あたかも反戦派であったかのような論調は、執筆者ごとの世代の大きな間隔が見て取れる。」
何とあの天下の朝日新聞が創刊期には政府と三井銀行から資金援助を受けていたという。その結果、特定の政治運動を支援する記事を書き、日露戦争では政府の進める主戦論を展開するという。何故三井が朝日新聞に資金供与をするのか?
「村山隆平(上の写真の人物) 新聞経営者。1850[嘉永3]年伊勢国田丸[現、三重県度会郡玉城町]に生まれ、紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。明治維新後大阪に移り、はじめ西洋雑貨商を営んだ。1879[明治12]年同業木村平八を資本主として「朝日新聞」[以下「朝日」と略]を創刊、2年後その所有権を譲り受け、上野理一と共同経営とし、この時から新聞経営に専念した。当時の朝日は政論を主としたいわゆる「大新聞」ではなく、通俗平明な「小新聞」であったが、小新聞の通幣であった卑俗をさけ、小新聞の型を破って社会政治論評をも掲載した。しかし、朝日は大新聞のように政治的に一つの立場をとることなく是々非々主義で、政論本位からニュース本位新聞への先駆をなした。これが成功して大阪においては他の追随を許さぬ発行部数を獲得、1888[明治21]年星亨の経営していた「めざまし新聞」を買収して東京に進出、「東京朝日新聞」を創刊した。」村山隆平
「三井家(みついけ)は、三井財閥の財閥家族。宇多源氏(近江源氏;59代宇多天皇の子孫)佐々木氏(宇多源氏の一流)出身である三井高久の流れを汲むとされる。
三井高利が伊勢国・松阪から江戸へ出て呉服屋を出店したことから三井家の事業は始まる。その後、京で両替商も兼業し、江戸時代を通じて三井家の事業の柱となる。
三井家発祥の地である伊勢松坂は御三家紀州藩の領地であった為、江戸時代を通じて紀州徳川家とは強いつながりがあった。」Wikipedia
村山氏と三井は同じ紀州藩の出であり、三井は、明治新政府では会計局為替方御用を務め、国立銀行制度が制定されてからは第一国立銀行へ出資して紙幣を発行する「政府の金貸し」である(新政府要人とも当然近い。長州出身の重鎮伊藤博文はかつて貿易商であり、自らの商売は三井に任せて政治に専念したとも言う)。
村山氏がどう思ったかは知らないが、金を貸してくれた相手を悪く書くことは出来ない(それが序列原理)。しかもその背後には政府(さらには天皇さえ)がいるのである。そもそもそうした金貸しが敢えて貸すにはそれなりの理由が有る。政府の言論統制機関としてその必要性を認められた新聞は、三井の資本支配を受け政府の意図する記事を書くまさに「御用新聞」であったのである。そうしたご都合主義がその後の「いい加減さ」にも表れているようだ。
読売新聞
「戦前のメディア支配を画策したと思われるのは、正力の上司であった後藤新平であるが、後に南満州鉄道総裁を務める後藤は、その後の内務大臣時代に正力を部下に持ち、ともに日本の諜報活動を行なっていたとされる(後藤は満鉄にも諜報機関を持ち、そもそも満鉄、内務大臣にはるか先立つ大正11年東京放送(後のNHK)の初代総裁でもあった。大戦直前の1924年に正力に読売新聞を買収させているのだ。」 (読売新聞の歴史~正力松太郎という男)
日清戦争で日本領となった台湾の民生局長から、日露戦争で得た南満州鉄道(満鉄)の初代総裁となった後藤新平が、部下の正力を通じて読売を買収する意図はやはり「政治による言論統制」しかなかろうと思う。三井も後藤も同じ明治、大正、昭和(特に戦前)に通じる政治と金融の中心勢力である。その彼らが2大新聞を支配しているのである。
2.戦後のメディア支配~メディア凋落
その後のラジオ、テレビといったメディアの創世は「どうする?マスコミ支配」10~アメリカによる電通支配?・・・満州人脈を大量に吸収したのはなぜか?の通りである。
そして70年を境に、人々が序列原理から開放されて共認原理に転換すると、人々の共認形成の中心となったマスコミは第一権力化した。しかし、先のメディア創世の論評の通り戦後のアメリカによる電通を通じたメディア支配はまだ終わってはいない。マスコミの前に日本の政治家はもはや第一権力ではない。しかし、そうした共認の闘争の渦中、国際金融資本による政治工作、金融工作は続いており、あたかも人々が望むかのごとくのメディアによるキャンペーンが今も頻発している(例、大連立、正月の環境特番、古紙率偽装)。
既にマスコミの支配構造は国民の知るところとなり、マスコミの発信するものを鵜呑みにする人はいなくなった。共認原理によって第一権力化したマスコミが、その後の事実認識によって凋落していくのである。このことに気づかないマスコミは、違和感だらけのキャンペーンを繰り返している。最後の問題は、マスコミを支配する巨大資本である。それも人々の事実認識によって早晩追求され、その存在や構造が、共認闘争の場に引き連り出されることとなろう。
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コメント2件
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