マスコミ記事の捏造過程を取材を受けた側がネットで発信
※写真はイメージで、記事の内容とは関係ありません
マスコミの捏造体質は既に広く認識されていますが、答えありきで取材内容を取捨選択し、マスコミの論理を正として事実を捻じ曲げて発信している実態が、ネットの普及により明らかにされつつあります。
毎日新聞が連載した「ネット君臨」について、日経ITのコラムに「藤代 裕之」氏がアップした記事を紹介します。
「ネット君臨」問題が明らかにしたもの(前編)
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〈以下、引用〉
連載1回目となる元旦紙面は、難病のため臓器移植が必要な家族らが行った募金活動に対し、2ちゃんねるで中傷やプライバシー侵害に当たるような書き込みが相次いだことを1面で取り上げた。記事は、2ちゃんねるで「匿名攻撃」を受けた家族の苦しみを「裸で歩いているような恐ろしさ」という声とともに伝える一方、2ちゃんねるユーザーに対しては、自らの誹謗中傷に「疑問を感じてはいない」と指摘している。見出しにも2ちゃんねる用語を使った。
1面に続き2、3面にも展開されたこの記事に、ネットユーザーはすばやく反応した。多くの書き込みが行われたが、「内容が一方的でバランスに欠く」というのが主な受け止め方だった。
(中略)
これだけであれば、ネット上でよくあるマスコミ批判で終わったかもしれないが、この後、毎日新聞から取材を受けた当事者が、取材の経緯を公開し記事の問題点を指摘していく。それは個人が情報発信できる時代ならではの展開といえた。
■取材を受けた本人がネットで反論
記事では、募金批判の中心人物としてハンドルネーム「がんだるふ」氏のインタビューを掲載した。このインタビューは比較的短いもので、「書き込みには中傷や誤報がある」といった記者の問いに対し、がんだるふ氏が「ネット上の罵詈(ばり)雑言はノイズ。被害と感じるのは弱いからだ」などと答えている。
ところが、がんだるふ氏は毎日新聞の特設ブログに「ここまで、恣意的に発言を処理されるとは思いませんでした。(中略)意図して、あのような記事のまとめ方をして実像をさらすというのは、報道の暴力にほかならないと考えます。報道に携わるものとして、深く反省する必要がありませんか?」と自ら書き込み、掲載された内容に異議を申し立てた。さらにミクシィの日記で取材時の状況や問題点を述べ、記者の実名を上げてやり取りを公開していった。
がんだるふ氏は、ジャーナリストの佐々木俊尚氏のインタビューにも応じ、毎日新聞の取材を受けたときの様子を、「議論をふっかける感じで、失礼な態度だった。私の失言を誘い、言質をとろうとする質問が目立ってました」と述べている(CNET Japanの佐々木氏のコラム)。
(中略)
取材時のやり取りなどの事実関係は当事者しか知りえぬことであり、この場でどちらが真実かを判断することはできない。ただ、記事を批判するネットユーザーからうかがえるのは、この連載がさまざまな事象を寄せ集め、その要因がどうであろうと、「ネット=悪」というフレームに当て込んでいく取材手法で描かれた「ストーリー」になっていないかという不信感だ。
■「本当のこと」は読者が判断
まず、ブログやSNSで個人が自由に発信できる時代が来たことを既存マスコミ側が理解していない(もしくは、頭では分かっていても肌感覚で理解できていない)ことがある。
ネット君臨の取材班の一人は、連載前に「ネット取材考」と題した新聞のコラムに「(中略)相手が取材された内容を、直後にブログの日記やネットの掲示板に書き込む。新聞記者のかつての取材は1対1の関係だった。それが大きく変わり、記者個人の名前や取材の仕方が不特定多数の人々にさらされる。メディアもそういう時代を迎えたことを思い知らされた。記者は名刺を出すことさえ、ためらうこともある。それでも生身の人に会って話を聞くのが私たちの仕事だ。そうしなければ、本当のことを伝えられないと思う」と書いていた。分かっていたはず…にもかかわらず、取材相手にネット上で取材手法を批判され、記者の実名や名刺のコピー画像、電話でのやり取りまで公開されてしまった。
前編でも述べたが、事実関係は当事者しか知りえぬことだ。しかし、取材される側がインターネット上のメディアという武器を持った時点で(その影響力は別にして)関係はイーブンになる。取材される側も自分の考えや意見、もう少し踏み込むなら「本当のこと」を伝えられるようになる。
リテラシーの高い読者は、新聞の連載を読み、取材された側の反論を読み、さらに、この問題について言及しているブログや記事を読み、総合的に判断して結論を導き出す。「本当のこと」が何なのかはプロの記者ではなく、読者が判断することなのだ。
情報源が新聞やテレビなどマスメディアのみだった時代であれば、記者が「本当のこと」を提示すれば、人々の多くが信じたかもしれない。しかし、今やそのような手法は、一歩間違えばフレームの押し付けとみなされる。記事の切り口、タイトル、取材源、座談会の人選…。記者や新聞社が提示するあらゆるフレームやアジェンダ設定が疑いの対象になる。
ネットユーザーにとっては、記者の言う「本当のこと」や「正しいこと」は、一つのものの見方に過ぎない。繰り返すが、既存マスコミはメディアの変化を理解したつもりでも、その本質には気付いていないのではないだろうか。
〈以上、引用終わり〉
今や、マスコミの発信する内容が事実とは限らないのは常識ですが、マスコミだけは、社会の向かうべき方向性を示すのはマスコミの役割であり、人々もそれを必要としていると思い込んでいるようです。
マスコミの発信にどこか上からの目線での物言い、結論の押付け(誘導)を感じるのは、このようなマスコミの根本的なスタンスのズレによるものだと思います。
それは、長くマスコミだけが発信者であり発信内容が事実か否かを問われない構造にあったため、事実を伝えることがマスコミ自身には既に出来なくなっているということだと思います。
しかし、ネットの場では全ての人々が発信者になり、マスコミはその一人に過ぎません。
事実追求の場はマスコミではなく、ネットにおける発信・協働の場に登場しつつあります。
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