裏天皇「堀川政略」の概容
引き続き、天皇家について。
6月2日のエントリー「旧陸軍系の錦の御旗(裏天皇)=堀川辰吉郎」の続きを解明したい。
裏天皇体制がどのように構築され実行されたのか。この堀川辰吉郎を裏天皇と成らしめた具体的な政略が存在していた。
今回のエントリーはそれについて克明に記されてあるブログから引用紹介したい。
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「堀川政略」の概容
ナポレオン戦争を経て、半封建的領邦国家から近代国民国家に変貌した欧州列強からの日本に対する国際化要求は光格天皇の御宇に始まり、欧州王室連合から日本皇室に対する皇室国際化の要請がしだいに現実味を帯びてきました。
具体的には、将来の世界王室連合への参加の呼びかけです。これについて、孝明天皇と側近が討議を重ねます。側近とは仁孝天皇の猶子(ゆうし)で孝明にとって養兄に当る青(しょう)蓮院(れんいん)宮尊(そん)融(ゆう)法親王と侍従岩倉具視です。
討議は、わが国が欧州列強に交わり近代国民国家として国際舞台に立つためには、政体の新しい装いとして立憲君主政体の樹立が必要になることで一致します。これを前提に、古代から続くわが國體(こくたい)を護持しつつ皇室を国際化するには、畢竟(ひっきょう)皇室を表裏に分けて二元化するほかないとの結論に至ったのは、日本天皇の本質が国民国土の安全を祈念する国家シャーマンだからです。つまり「オオキミはカミにいませば」の本義です。
大政奉還が行なわれて京都に政権が移ると、徳川幕府の本拠江戸は廃れて旧(もと)の武蔵野になることを、天皇は憂慮しました。国土の均衡上、立憲君主制の帝都を東京すなわち江戸に定めねばならず、国家元首たる天皇は、政体と皇軍に君臨するため東京城を皇居としなければなりません。
しかしこれでは國體天皇の国家シャーマンとしての霊力に陰りが生じます。大峰山から富嶽に昇る朝日を拝するためには、関東に動座することは適いません。これにより政体天皇は東京城に、國體天皇は西京(京都)に座すべきことが必須条件と認識されたのです。
皇室が世界王室連合に参加すれば、王室間外交は勿論、欧州王室の慣行である王室間通婚を避けて通れず、その結果皇統に外国王家の血統が入れば、わが国従来の國體観念と乖離(かいり)する虞(おそれ)があります。また世界王室連合の一員となった皇室は、王室連合の金融を担当する金融皇帝ロスチャイルドに対する協力・支援も必要となり、国際金融にも無関係でいられなくなります。
孝明がさらに重要視されたのは、開国に際して生ずべき国民間の各種対立と抗争を極小化することだと考えられます。当時、日本社会の地質構造には三本の大きな断層が走っていました。そのことは、十一月末に成甲書房から公刊する予定の拙著『明治維新の基本計画「堀川政略」』(仮題)で詳述しますが、①皇統の南北対立、②朝廷と幕府の対立、③公家・武士階層内での上下対立がこれです。
開国に際しては外国勢力は必ず国内介入の機会を狙い、右のいずれかに眼を付けること必定です。外国の介入の結果は臣民相(あい)撃(う)つ内乱に逢着(ほうちゃく)し、挙句の果てに植民地化もあり得ぬことではなく、人民は永く塗炭(とたん)の苦しみに陥ります。
この事態を避けつつ上記の三大対立を解消して、新しい立憲君主政体の樹立を志した孝明天皇は、それを実現するためのプログラムを国事御用掛朝彦親王(時に青蓮院宮)と侍従岩倉具視に諮問したのです。これに対して両人が奉答したのが「堀川政略」です。
その内容を正確に把握することは素より困難ですが、その戦略的骨子はおおよそ下記の如きものと推察されます。
①孝明天皇が崩御を装って、皇位を南朝皇統の大室寅之祐に譲る。
これを実現するために幾つもの戦術が組み立てられましたが、当初にすべてを建てることはムリで、臨機応変に対処したのは当然です。その主なものを幾つか挙げます。
るいネット「天皇と裏天皇と八咫烏。彼らこそが日本と世界を操る最大の秘密組織なのか」
彼らは呪術集団ではないかとの噂も聞くが、これは今後の追求としたい。
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