マスコミによる世論形成の恐ろしさ-8 国民の「知る権利」を踏みにじる捏造報道
『マスコミによる世論形成の恐ろしさ』と題してきたシリーズも今回が最終回となります。
今回は、今や一般市民を攻撃する「社会の凶器」となったマスコミ報道がいかに客観性及び中立性に欠き、国民の「事実を知りたい」という「知る権利」を踏みにじっているかについて事例と共に述べていきたいと思います。
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◆国民の「知る権利」を踏みにじる捏造報道
(るいネットより引用)
第二に指摘しておきたいのは、例え国家権力や資本権力を標的とする場合であっても、「報道の自由」は決して無制限なのではなく、その報道姿勢や報道内容が、客観性(それが事実であること)及び中立性を保持している場合にのみ認められるという点である。まして、その標的が一企業や一市民である場合は、より厳しく客観性及び中立性の保持が求められることは、云うまでもない。
しかし、今回、週刊朝日は、類塾の信用を著しく毀損する記事の諸点において、類塾に悪意を抱く退職社員の証言だけを編集して記事にし、その証言を否定する元社員や社長の証言は全面的にカットして、掲載した。この週刊朝日の取材姿勢及び編集姿勢には、客観性や中立性の欠片も見られない。
報道機関が掲げる「国民の知る権利」についても同様である。
そもそも、国民は報道機関に「知る権利」を委託した覚えはない。実際、報道機関は、国民一人一人から口頭あるいは書面で「知る権利」を委託された訳ではない。従って、報道機関が主張する「国民の知る権利に応える為の報道」というのは、報道機関が勝手にそのように詐称しているだけであって、その主張自体がすでに根本的な捏造である。
あるいは、一歩譲って、「国家権力や資本権力に対して知る手段を持たない大衆に代わって、報道機関が報道する必要がある」としても、それはあくまでも報道機関が客観性及び中立性を保持した記事を掲載した場合にのみ、主張できるのであって、報道機関が中立性を欠いた記事あるいは事実に反する記事を掲載した場合、それは、「国民の知る権利」を著しく踏みにじる行為となる。国民の「知る権利」を踏みにじっておきながら「国民の知る権利」を主張するなど、笑止千万であろう。
まして、強大な力を持たない一企業や一市民を標的とする場合は、その標的が重大な違法行為を犯している場合あるいは多数の被害の声が出ている場合にのみ、報道機関による「国民の知る権利に応える為の報道」が許されるのであって、何らの違法性も被害の声も出ていない企業に対する、報道機関の一方的な「知る権利に応える為の報道」など決して許されるものではない。なぜなら、もしそれを許せば、報道機関の恣意的な判断による報道犯罪の温床となり、一般企業や一般市民の生活を破壊し、根底から社会秩序を破壊してゆくことになるからである。
今回の、何らの違法性も被害の声も出ていない健全な一中小企業にすぎない類塾を標的とした、週刊朝日の独断と偏見に満ちた恣意的な報道は、弊社及び類塾の信用を著しく毀損し、類社員及び塾生ならびに保護者の名誉を著しく毀損しただけではなく、国民及び地域住民の「知る権利」を決定的に踏みにじる行為であって、このような一般企業や一般市民の生活を脅かし、社会秩序を根底から破壊するような反社会的行為は、断じて許されるべきではないと考える。
このシリーズでは、国家権力や資本権力の監視という本来の役割を果たさずに権力だけを肥大させてきたマスコミの姿を明らかにしてきました。
また、何ら違法性のない一般企業・市民の生活を破壊する恣意的な報道は、「犯罪」であることを述べてきました。
これは、法的にも裁くことが可能です。
一民間企業に過ぎないマスコミだけが、強大な既得権益を背景に一方的に世論形成を担っていることの恐ろしさを知ってもらえたと思います。
今、私達にとって必要なことは、 【マスコミは今や反社会的な存在である】という世論形成を自ら作り出していくことです。
そのためには新しい世論形成の場を作っていく必要があります。
その中では、放送権、異常に安い電波使用料や小さすぎる罰則規定などマスコミの既得益を規制するための方針を作っていくことができます。いずれにせよ、私達一人一人がマスコミを監視・評価していくことが必要です。
本ブログでは、今後もマスコミの存在意義を問い続けていくと同時に、「皆が必要とする認識」を届けていきたいと思いますので、応援をよろしくお願い致します 😀
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