安倍内閣の背後にある日本会議とその精神的支柱7
安倍政権を見るには、天皇中心となった明治初期の状況から理解しておく必要が有りそうです。
日本は、戦後長きに渡り米国の影響下にあり、今でも沖縄問題などを抱えていますが、世界的には米国の力は衰弱する一方で、国内では安倍政権の改憲と明治憲法復権に向かおうとする動きが目だってきています。
当初、この潮目の変化は、何かと考えていましたが、以下のるいネット記事を読むと、見方を変える必要があるのでは無いかと思いだしました。
以下、明治日本は、欧米諸国の植民地であった① より
・金融ユダヤ=金貸しによる、徳川と薩長に貸した金を返せる体制=明治維新政府。この金貸しによる全く同じ手法によって、トルコ、エジプトをはじめとするアフリカ諸国でも、同様の金貸し支配体制が構築された。
・治外法権・関税自主権のみならず、貨幣鋳造もイギリス人技師の許可が必要である上、政治経済の要人は、金貸支配に都合の良い人物で占められ軍隊常駐、大学教授の過半は外国人、教える中身も西欧思想となっては、明治日本=欧米の植民地そのものといえる。
・明治政府の借金返済のために行われた地租改正によって、農民は土地を奪われ、都市に出て工場の労働者とならざるおえなかった。
以下より、さらに明治初期の状況を、押えたい。
以下、五井野正氏「法華経三部経体系」(1981年10月12日発行)より引用
*********
徳川幕府が治外法権や関税自主権の喪失の条約をしたけれども、天皇中心の明治政府が何故、そのような条約を継承しなければならなかったのか?
それは、新政府がその条約を継承する事によって初めて、欧米各国から政府として認められる状態で、それなしでは新政府は幕府と戦うことも、存続自体も危うかったからです。
勿論、諸藩と欧米との借款も新政府が肩替りするという約束もしざるを得なかった。
それだけでなく、官軍の江戸東征の最中に堺でフランス兵士と土佐藩で起きた衝突事件でフランスから土佐藩責任者の厳罰や十五万ドルの賠償金を要求され、それに無条件に従う事によってフランスも新政府につかせたが
幕府のフランス銀行から借りた50万ドルも肩替りしざるを得なかった。
欧米の主導格で何とか政権をとった新政府の財政は、年貢や通常歳入が三六六万円、特権商人や畿内の大社寺からの献納金が十五万円。
それに反して支出面では五五二万円で全国の商人から集めた借金三八四万円で何とか埋め合わせたという応対であった。
しかも欧米との借金は幕府関係六○○万円、諸藩関係で四○○万円にも達していた。しかも、借金の利率は期限切れ罰金等を含めると月一割も超えていた。
しかも、関税の自主権はなく、明治十四~五年以前まで日本人の手による直輸出、直輸入は皆無に等しい為に毎年貿易赤字を出し明治三年の場合など二千万円近くもあって毎年の輸入の半数近くがイギリスからである。
そのイギリスからの輸入の第一位は織物で、二位が砂糖で、この二つで過半数の割合になり、日本の綿業に従事する農民(農業有業人口の約三分の一)や甘庶作や製糖業に従事している人達に大打撃を与えた。
それだけでなく、列強の国策会社は海運業を独占し、しかも日本の沿岸通商でさえ独占し始め、大銀行群の支店の開業等、中国の植民地化よりもひどい状態が短期間の内に起きてしまった。
それ由、新政府が収入とする財源は農民からの年貢しかなく、諸外国に返す借金や新たな借金の保障としてイギリスがインドで行ったように農地に所有を認める代わりに地租税を金で治める地租改正令を明治四年に出した。
日本史は農地の売買の自由、個人の所有権を認めるという記述で改革的な事のように思わせるが農民にとっては幕府当時よりもひどい改悪令なのです。
つまり、幕府当時でも農地の売買、所有権は公然としてあったというよりも幕府の天領以外は干渉しなかったのです。
これによって農民の負担は、より一層増大するばかりでなく、大商人の意のままに動かされ、先祖代々の土地を手離して小作人になったり、仕事を求めて町に出て来たりするのです。
しかも薩摩や長州、土佐等の農民は政府によって色々便宜を受けられても、徳川幕府の支配が強かった関東、東北などは苛酷な重税に苦しみ娘を売るなど人身売買や、農民の反乱等を引き起こした。
又それだけでなく、土地の個人所有の登録によって地租をかける為、税金を逃れようとして登録しないままにして自分の土地を失ったり、騙されて他人の名義にされたりして大混乱を引き起こした。
幕府時代は農民に一定の年貢が課せられていたが、新しく開墾したり、隠し田と言って年貢のかからない土地を農民が持っており、それは農民の楽しみとして公然と認められていたのです。
それさえも税金が課せられ、もしくは他人の物とされたり、後に無登録の土地は国のものという政令になると山林や共有林もみな農民の手から離れてしまったのです。
こうした順を追っての取り立てによって明治五年の時は二○○五万円だった地租収入は、翌年には六○六○万円と三倍にもなっている。
こうした地租改革は、政府や欧米の諸国には有利だけれども農民にとっては大変な事でその為、国内は騒乱状態に入った。
そこで一方では武力を持って、一方では政府の方針は、国民を新たな文明の世界に導くのだという思想の流布と教育が必要になった。
つまり、外国を即時打ち払えという攘夷論の先頭に立った天皇や薩長がいつの間にか外国と手を結んで日本を外国の支配の下に置いて、民衆は農地を失う、仕事はなくなるでは不満どころの騒ぎではなかったからです。
----------------------------------------
以上の記事からは、明治政府が、如何に世界の金貸しの餌食になって来たか、国民が困窮生活に追い込まれたのか?とも読めますが、見方を変えれば、天皇を中心とする朝鮮系勢力が、あえて倒幕の為に、金貸しの力を借りたのではないか?。
金貸しからすれば、当時のアジアは儲かる地域であり、そこと手を結んだ。
そして、明治~大正~昭和~平成へと時代が下がり、この間ずっと何らかの形で日本は欧米の金貸し勢力の影響下にいた。最初は欧州系ロスチャイルド、戦後は米国系ロックフェラー、100年以上かかってやっと、明治期に望んだ体制を実現できる時に来た?という事なのだろうか。
まだ、憶測の域を出ないので、調べてみたい。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2015/12/5311.html/trackback