裏天皇の正体12~幕末当時の欧州情勢(ロスチャイルドは、欧州王室連合を民主化運動によって金貸し支配国家に改造した)~
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前回は大政奉還が徳川最後の将軍慶喜と天皇家側で進められ、金貸しの思惑通り、日本内で内戦を起こし、国が弱体化することで支配するということにはなりませんでした。
慶喜が天皇家側と手を組んで(元から慶喜は天皇家の出身)大きな争いを行わずに事を進める事ができました。
今回はその時、海外情勢がどうだったかを確認していきたいと思います。
この当時世界には2つの勢力がいました。
欧州の王室連合と金貸し勢力です。
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下記は『明治維新の極秘計画 「堀川政略」と「ウラ天皇」 (落合秘史)』の書評を引用しました。(リンク)
そもそもわが国要所によって「堀川政略」にいたる一大戦略を準備する必要が痛感された契機は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を取り決めた「ウィーン議定書」(1815年6月9日成立)が結ばれ、続いて同年9月26日にロシア皇帝アレクサンドル1世の呼びかけで「神聖同盟」が成立したことにあった。
鎖国時代のわが国にとって遙か彼方の世界の無縁な出来事と言うべき、ヨーロッパ列強間に結ばれた「神聖同盟」に対して、なにゆえにわが国要所が危機感を抱いたか。
ここが「落合史観」の面目躍如たるところで、通説では例えばウィキペディアに説くように「これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった」とするが、著者は「しかしながら、神聖同盟の真の意味は、実は『欧州王室連合』の成立にあり、それは將來の『世界王室連合』を睨んだものだったのです。
つまり欧州各王室の目は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです」このことをもっとも敏感に察知されたのが、第119代光格天皇(在位1779~1817)である。すなわち、光格天皇に始まる危機意識の結実こそ「堀川政略」である。
ヨーロッパの王室達は日本の天皇家を巻き込み、世界王室連合をもくろんでいた。
おそらくは著者によって初めて命名された「堀川政略」なるものの詳細とその担い手については、倒幕をも視野に入れた公武合体策を骨子とするこの変革計画が、なにゆえに薩長土肥による「民衆革命的様相」を色濃くするに至ったのかについては、著者の説明が充分ではないように思われる。本書は「落合秘史」と銘打たれているから、あるいは続編たる「落合秘史」で明らかにされるのかも知れないが、期待も込めて、ここに愚見を述べておきたい。
欧州王室連合から世界王室連合への動きを捉え、これに対応する必要をわが皇室が察知されていたとするのは著者の炯眼と言うほかないが、このいわば「上からの世界戦略」と軌を一にして「下からの世界戦略」が用意されていたのではないかと疑われる節がある。それは「民衆こそ神である」と標榜したジェノヴァ人ジウゼッペ・マッチーニを宣伝塔として起用した「世界青年党運動」である。
「世界青年党運動」と言っても耳慣れない言葉で、せいぜいフリーメーソンの世界革命運動で、そういえば100年後のケマル・アタチュルクによる「青年トルコ党」がトルコ革命の中核となって近代国家トルコの誕生をもたらした、というくらいの知識しかわれわれは持ち合わしていない。
だが、ウィーン議定書による欧州新秩序ウィーン体制から生まれた「神聖同盟」に大英帝国が不参加だったこと、および原参加国の3国が100年後に勃発する第一次世界大戦により消滅したという史実に鑑みれば、ロンドンのシティを拠点とするフェニキア=ヴェネツィア世界権力の仕掛けた世界戦略の主眼が「世界王室連合」の結成にではなく、「世界青年党運動」の連鎖的発動にあったことは間違いない。
「世界青年党運動」は実に、英国を簒奪したヴェネツィア党が仕掛けた一大世界革命戦略であって、あまりにも巨大なその世界的広がりと規模の甚大さによって世界史の通説からすっぽりと見落とされているが、「神聖同盟」の向こうを張った「人民神聖同盟」が「青年ヨーロッパ党」として結成されたのを始め、深甚な影響をもたらした各国の例を試みに挙げてみると、「青年イタリア党」「青年スイス党」「青年コルシカ党」(マフィア同盟)「青年フランス党」「青年アルゼンチン党」「青年ボスニア党」「青年インド党」「青年ロシア党」「青年アメリカ党」「青年エジプト党」「青年チェコ党」「青年トルコ党」「青年ペルー党」……など一一挙げるのも面倒なほどで、「青年ユダヤ党」も結成され、それは「ブナイ・ブリス」(契約の子)と呼ばれることになる。
わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいまい。
すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではなかろうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830~1898)に委ねられたと見るべきであろう。
世界青年党運動は実際、金貸しが民主主義で国家を支配する運動ということ。金貸しが革命運動家に資金援助を行い、王室支配から金貸し支配である民主主義国家に仕立て上げるために仕組んだものです。
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更に押さえておくべきことはウィーン体制の発足についてです。
ポイントは2点。ナポレオン戦争の後の荒れた欧州各国の国際秩序の修復を目指したウィーン体制。これが欧州王室連合です。その時神聖ローマ帝国から独立したスイスが永世中立国になったこと。もう一つはその金庫番がロスチャイルドがなったことです。
段階を追って見ていきましょう。
第一段階でロスチャイルドはナポレオンに資金援助を行い、各国で戦争を仕掛けさせました。各地の王室は危機感に駆られ、ロスチャイルドに資産を預けました。更に戦争資金をロスチャイルドが貸し付けることでロスチャイルドは莫大な財産を築くこととなりました。
第二段階で欧州各国はナポレオンを退け安泰な欧州にするためにウィーン体制(欧州王室連合)を整えました。
ウィーン体制(欧州王室連合)では、ロスチャイルドが金庫番、スイスが金庫国となりました。
第三段階としてロスチャイルドは150年前にイギリスを名誉革命によって王室支配国家から金貸し支配国家へと変えさせたと同じく、この時にその他のヨーロッパ各国を金貸し支配国家へと変えていきました。これが世界青年党運動という民主化運動です。
第四段階は思想支配の先導役としてマルクスの存在です。世界青年党運動は1848年運動とも言われています。その年はマルクスの『共産党宣言』が出版された年です。書籍の有名な言葉として「万国の労働者よ団結せよ共産主義者は、自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。」と述べています。
この『共産党宣言』もジウゼッペ・マッチーニの「民衆こそ神である」というアジテーションも、民衆の自我の暴走を正当化し、それによって欧州王室連合という社会秩序を破壊し、金貸し支配国家への改造を正当化したものに他なりません。つまり、マルクスも金貸しの手先だったのです。
このように、欧州王室連合が金貸し支配国家に改造されていった。これが当時の欧州情勢ですが、それに対して当時の日本(ウラ天皇)はどのように対応したのか。
それがウラ天皇の堀川政略であり、その一環として尊王攘夷運動を焚きつけたとのことです。そして、尊王攘夷運動とは世界青年党運動の日本版だったらしい。
次回は、その説を紹介します。
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