インドの謎を解く~東洋のユダヤ人=ゾロアスター教徒(バルシー)とは?
インド財界の中心をしめてきたバルシー(ゾロアスター教徒)について、基礎的な資料を転載する。彼らはイラン方面からイスラム教に追われてインドにやってきた少数派である。そういう意味ではインドアーリア人の歴史を反復しているようにも思われる。
また東洋のユダヤ人と批判的に語る人々も多いが、彼らの特徴は近親婚による純血路線にあり、その点では、ユダヤ教徒よりも徹底している。しかも善悪二元論かとおもいきや、善につくのも悪につくのも自由とされているようだ。宗教的特長を見ていくと、そのしたたかさは、ユダヤ教徒をも上回るともいえ、ユダヤの手先という分析は少々短絡的分析に見える。
ゾロアスター教は宇宙の法たる神アフラ・マズダーを主神とし、善の勢力と、悪の勢力の二つの原理により、世界は成立しているとする。人間はみずからの自由意志で、善の側か悪の側かに立つことができる。両者の争いの果てに、最終的には善が勝利して、悪を滅ぼし、悪神の勢力は滅ぼされるという宇宙史的運命を主張した最初の宗教である。
サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は世界宗教であった。しかし、国教化と共に、そしてイスラム帝国の勃興と共に、ゾロアスター教は偏狭な面を備える宗教となって行き、その故地イランがイスラム化してからは、世界宗教として成熟したイスラム教に取って代わられる。一部のゾロアスター教信徒は、イスラム教を避けて、新しい天地を求めてインドに集団移住し、その地でパールシー(ペルシア人の意)と呼称され、一千年後まで続く共同体を築いた。かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿は今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
1100年頃に、イランから移住した。4つの船に乗ってイランから、インドのグジャラート州にたどり着いた。パールシーの共同体の伝承では、グジャラートのマハラジャとの間で次の様なやりとりがあった。パールシーの代表者がマハラジャに定住の希望を伝えるが、マハラジャは「あなた方のための場所は残っていない」と答えた。代表者はコップに一杯のミルクを希望した。ミルクをコップに注いだあと、スプーン一杯の砂糖を溶かしこむが、コップからは一滴のミルクもこぼれることはなかった。そうして、「このように私達がこの地に溶けこみ、地域を甘くすることが出来ます」と述べた。この話に感銘したマハラジャは、布教を行わないという条件で定住を許可した。 ゾロアスター教徒は、ゾロアスター教の父を持つものだけという条件である。女性を嫁がせてゾロアスター教徒を増やすことはできない。
パールシーの一団はグジャラート内で素朴な農民としての暮らしを始めた。イギリスがインドに進出した後に、イギリス人がパールシーのサポートを始めることになる。理由として考えられているのは、パールシーがインドで混血していないのでヨーロッパ人に近い外見をもつのでパールシーをイギリス人とインド人の間に置いて、 パールシーに命令する地位を持たせることなど。また、混血していないアーリア人である事など。
更に、東インド会社によりパールシーの位置は高められて、ほとんどのパールシーはグジャラートからボンベイ(現在のムンバイ)に移住する。主に貿易によってパールシーは財力をつけて行くことになる。伝わる話によれば、イギリス人がアヘンの貿易により中国から追放されたあと、イギリス人のサポートの元にパールシーが阿片の貿易を行っていた。この結果、インドの独立時にはパールシーは強い経済力と、支配的な地位や人々の上に立つためのノウハウを身につけていた。
インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シーク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。
パキスタン政府の公式統計では、同国の人口1億3000万人のうち0.2%がゾロアスター教徒だとされている。 主にカラチ一帯に居住しており、インドのパルシー同様に財界で勢力を築いている。
バルシー(ゾロアスター教徒)について東洋のユダヤ人と批判的に語る人々も多いが、彼らの特徴は近親婚による純血路線にあり、その点では、ユダヤ教徒よりも徹底している。しかも善悪二元論かとおもいきや、善につくのも悪につくのも自由とされているようだ。
>『善と悪によって世界は分断されており、人は自由意志でどちらを選ぶ事も出来る。ただし、いずれ悪は必ず滅ぼされ、悪人は破滅するであろう』って感じです。善行を積んだり、免罪符を買っても、善人に近づいたりはしません。ゾロアスターの特徴として、マニ教なんかの一神教を激しく攻撃した点が挙げられます。簡単に言うと、「悪も生み出したんなら、その造物主には悪の面もある」ってわけで。善と悪は相容れず、その間をふらふらしてるのが人間、ってな考えだったみたいですね。イスラム教に弾圧されたのも、元の勢力の大きさもありますが、これが大きな原因。
>では何が大事かというと『クワェード・ダフ』こそが重要なんです。 クワェード・ダフとは、近親婚の事です。きちんとそれをこなさないと、胸を張って善人だと言えないわけです。ゾロアスターにペルシャの王朝で最も褒め称えられた王子は、七人だったかと実行しています。
つまり、善につこうが悪につこうが、そんなことでは乱世は乗り切れない、近親婚の純血主義で生き残る、というのがゾロアスター教徒の戦略だったようです。
しかし、この純血主義は集団の拡大にはつながらず、常に少数民族という選択肢を選ぶことになる。そこから、自集団を取り囲む地域共同体との共生という戦略がさらに派生したようです。
>多民族・多宗教国家であるインドにも少数ながらユダヤ人はいる。ローマに国を滅ぼされて以降移住したと見られてるが、インドとローマの盛んな貿易例など から、それ以前から住み着いていた可能性もあるだろう。ユダヤ人が何時頃からインドにいたにせよ、反ユダヤ主義など無縁なこの国では、キリスト教圏より遥 かに住み心地は良かったはずだ。しかし、インドくらいユダヤ人がその才能を発揮できない国も珍しい。イスラム圏、欧州共にユダヤ人は経済を牛耳り文化人も輩出しているが、何故かインドではまるで振るわない。その役割は彼らよりずっと後にインドに移住してきたゾロアスター(拝火)教徒が担っている。インドでパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒に関しては7月21日付けの記事に簡単に書いたが、ユダヤ教徒はこのような華々しい歴史もなく実に目立たない少数民族に過ぎない。共に同教徒だけと結婚し団結力の強さでは定評のある集団にも関らず、この違いは何故なのか?
>作家・塩野七生氏は欧州でユダヤ人が憎まれ軽蔑された理由の1つ に、彼らが他人を守る為にわが身を犠牲にするような危険を冒さず、その代わりに特別税を払ったことを挙げていたが、彼らはイスラム圏やインドでも同じ態度 に徹していた。欧州と違い、特にインドでは外敵との戦いは基本的にクシャトリアの責務なので、別に戦わずともユダヤ人が軽蔑されることはなかった。が、 パールシーはこれと正反対の姿勢を取る。11世紀以降、イスラム教徒はますますインド侵攻を強め、ついに13世紀末には西部グジャラート州にまで遠征軍を送り込む。この時パールシーは特に参戦 を要求されたのでもないのに、ヒンドゥー軍に加わり侵略に抵抗する。激闘の中でヒンドゥーと共に彼らの多くは命を落とすが、奮闘空しくこの地もイスラムに 征服される。もちろんユダヤはいつもどおり戦わず。
>中世以後近代まで南を除いてインドはイスラム征服王朝が続くが、ムスリム支配者は異教徒にはジズヤ(人頭税)を課す。税金逃れのため改宗した者も少なか らずいたが、信仰心の厚い者はそれでも税を払った。パールシーの中には貧しいヒンドゥーの為に税を肩代わりした者さえいたが、当然ユダヤはそんなことはし ない。
>英国支配時代にはイギリスお得意の分割統治で少数派優遇のためパールシーその他マイノリティを手懐けようとするが、忠犬になるどころか独立運動家や社会 改革者を輩出したパールシー。この時期の主だった活動家は、ヒンドゥーやムスリムと並びパールシーの名が目に付くが、ユダヤは1人も見当たらない。イギリ スに積極的に加担した訳ではないが、結局ユダヤは金も体も張らなかった。
>ユダヤ、ネストリウス派キリスト教徒、パールシー、チベット仏教徒…インドは様々な異民族、異教徒を受け入れてきたが、居住権と生存権を認めただけであ り、生活保護や平等な地位を与えたのでは決してない。日本のように何かあれば差別と金切り声を上げる少数民族などいないし、そんな連中は構ってもくれない のだ。共同体への義務を見事に果たしたパールシーと、常に後ろ向きだったユダヤ。塩野氏が「他のあらゆることに優秀でも、他民族との協調だけは苦手」と評したユダヤだが、他民族との協調力の差がこの2つの民族の違いとなったのか。
このように民族としての歴史をみるとゾロアスター教徒をユダヤの手先のように考えるのは少し短絡的というか、大きな誤りではなだろうか。
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