2008年08月10日

英国と米国の金融市場の機能

 このブログの2008年8月2日付けで、
「外国為替市場と証券取引市場の規模はどうなっている?」という記事がありました。
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 英国市場の国際的な資金調達としての機能と、米国市場の資本運用としての機能の違いがデータで示されています。
それで、米国と英国の市場の機能について、調べてみました。
引用は、倉都康行氏「金融VS国家(ちくま新書)」です。
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○英国の金融市場

 基軸通貨ポンドを擁したロンドン市場は、19世紀半ば以降のグローバリゼーションの波に乗って、各国の資本活動を誘引していく。1802年に設立されたロンドン証券取引所には、英国債を発行する英国政府だけでなく、英国に蓄積された資本を求める国々も資金調達を行うために集まるようになった。つまり、同市場では英国債と並んで、各国の国債が売買されていたのである。
(例)日露戦争時に、日本はロンドン、ニューヨーク、パリ市場で戦費の約40%の資金調達を行った。それは、1904年、高橋是清が英国でたまたま会食に同席していたクーン・ローブ商会のヤコブ・シフと知り合い、彼が、日本国債の引受けを快諾し、その斡旋により、日本は外債発行に成功した。
 債券市場は、金利の世界である。借り手にとって金利が低いに越したことはないが、その金利水準を決めるのは投資家のリスク感覚である。安全資産であれば金利は低く、支払不能という危険度が増せば金利は高くなる。だがこれは相対性の問題であり、金利という数値表現をするには何らかの絶対尺度が必要になる。英国市場は、英国債の金利が世界各国の国債利回りに対する基準になることを示した。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロンドン証券取引所で英国債が3.0%で取引されているとき、同取引所に上場されていたスウェーデン国債は4.0%、ロシアは5.0%、トルコは13.0%といった水準で売買されていたようだ。一方、アジアの日本や中国の国債は6.0%程度で取引されていた。
 これらの国債金利は、それぞれ英国債をベースにどの程度の「リスク・プレミアム」が付加されていたのかを示している。前記でいえば、トルコのリスク・プレミアムは10%、日本や中国は3%というのが当時の「割増し金利」であった。今では当たり前の概念ではあるが、金利差は資本の再配分システムにとってきわめて重要な市場情報となる。こうしたプライシング機能もまた、英国市場の優位性を支えていたのである。
  こうした市場機能は、現在でも英国金融ビジネスの基盤として根づいている。ポンドが基軸通貨の座から陥落した今でも英国が国際金融の中心地であり続けるひとつの理由に、こうした「リスク・プライシング」という金融ソフト・パワーの歴史の重みをあげても間違いではないだろう。現代資本市場では、信用力(例えば格付け)の高低によってどの程度のリスク・プレミアムが要求されているかを示すものを「クレジット・カーブ」と呼んでいるが、英国はまさにこの概念を19世紀にすでに生み出していたのである。

○米国の金融市場

 米国では、株式市場とともに国債市場が急速に発展していった。英国市場が英国自身の資金調達と同時に海外諸国の財政資金調達の場として発展したのと対照的に、米国市場は新興国として成長する自国経済を支えるための調達の場として発展することになった。
 米国も他国の例に洩れず戦費調達のために国債発行を開始するが、国家債務に関する基本路線を敷いたのは、「新興国はいかにして資金調達のための信用力を高めるべきか」という命題に腐心した初代財務長官のハミルトンである。その資本哲学が後日、米国市場のイールド・カーブ(利回り曲線)を生んだといってもよいかもしれない。
 
 満期ごとに利回りが示されるその市場メッセージは、巨額の経常赤字を海外から吸収するために、大きな威力を発揮する。現在の感覚でいえば当たり前のことだが、3ヶ月から30年といった長期まで、1日ごとに理論的な利回りが市場から試算できるという機能的な金融インフラを最初に生み出したのは米国の国債市場である。これも英国のリスク・プレミアムとともに、偉大なる市場機能の発見であった、と言うことができる。
 米国では南北戦争終了後に国債の整理に着手し、さまざまな国債を買い入れて統合するとともに国債満期の長期化などを図っていく。さらに20世紀初頭には、満期になった国債を異なる償還期日の国債に切り替えるなど、満期構成の多様化を行っている。これは、国債償還が特定の年に集中しないように管理する政策であったが、投資家にとってはさまざまな満期が選択できるようになり、結果として満期に応じた金利水準の設定も促されることになる。これによって、イールド・カーブが形成されるのである。
 
 イールド・カーブという市場機能は、国債市場に資金吸引力を与えるだけではなく、スワップと呼ばれる派生商品の市場形成を通じて、資本市場の威力を発揮する効果もある。金利や通貨のスワップは、現代資本市場になくてはならない技術であるが、これが基盤とするのは期間ごとに利回りが計算できる国債市場なのである。 

 この時代18~19世紀は、国家が資本調達を最重要課題として取り組んでおり、まさに「国力=経済力」となっていた時代である。そのために、国家は目的達成のために、市場と手と結んだ。そこに、金融機関(金貸し勢力)の活躍の場ができたのだと考えられる。
 また、この両国のシステム(英国市場=資金調達、米国市場=資金調達)は、両国の資金を増殖させるうえでは、両国が役割分担をして、うまく機能していた。そのためには、両国のシステムをバックアップする、両国の法制度だけでなく、国際機関の果たす役割は大きかったと考えられる(IMFや国際銀行や国際連合など)。国家と金融勢力との結びつきに加え、国際機関と金融勢力との結びつきについても調べる必要があると感じた。

List    投稿者 hoop200 | 2008-08-10 | Posted in 08.近現代史と金貸し1 Comment » 

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コメント1件

 hananusubito | 2008.11.13 19:36

>自由民権運動は、薩長vs土肥の権力闘争に利用されてもいたのです。民権活動側は国会(帝国議会)開設を建言しますが、帝国議会に管理されることを嫌った薩長勢力が、政府資産を「皇室」に避難させたのが実体のようです。
>明治の政府要人は下級藩士の出であるものも多く、何らの正統性を持たないゆえに公家である岩倉を通じて天皇と結びつき天皇を擁する政治体制を構築しました。その実情は新政府と皇室は政体として一体であることを容易に想像させます。
面白いな~と思ったのは、古来より天皇はある意味“象徴”であり、背後には必ず実際に実権を有する者達の権力闘争があった・・・江戸時代の朱子学を基礎とした統治思想もそうだし、明治においても天皇の権威と財産は明治政府の意のままに作り上げられたものであり、これは欧米の王政とは全く異なる日本独特の「支配構造」なのではないかと。
東京裁判で天皇が裁かれなかった背景には、GHQがこうした「日本支配の構造」を理解したからかもしれないな・・・と思いました。

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