2020年11月18日

「鎖国」とは武器と傭兵輸出の禁止令でもあった 

日本は海外の門戸を閉ざしていたがゆえに近代化に立ち遅れ、開国によって近代化を果たしたかのような理解が一般的である。

そのような中で、今日、グローバリズムを考えるうえで、江戸時代に行われた対外貿易制限(俗にいう鎖国)はどのような内外の情勢判断に基づいて行われたかを理解することは今後の日本の進むべき方向を考えるうえでも重要だとわれる。

■海を渡った日本人傭兵部隊
16世紀末から17世紀にかけて数多くの日本人が海外に渡っていった。その数は東南アジアを中心に約10万人に上る。その中の相当数が海外で傭兵となって活躍していた。
彼らはポルトガル・スペインの奴隷貿易によるものもいるが、自ら志願して(売り込んで)傭兵となったものも数多い。時代は秀吉から徳川への転換期で、戦場を糧にしていた者達の居場所が少なくなっていた頃だ。以下幾つかの具体例を挙げる。
・ポルトガルによって占領されたインドの当時の最大都市ゴアの要塞では、特に勇敢で好戦的ということで、度々襲ってくる原住民と戦う傭兵として多くの日本人が戦闘を行っていた。ゴアは一時期白人より日本人が多く居住するような状況であったという。
・1603年にはスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、フィリピンにおける支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功し、さらに支那人への攻撃を続けている。
・シャム(タイ)では、国王の傭兵として山田長政の率いる日本人800人がスペインを撃退している。

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これらから、ルイス・フロイスはイエズス会に「日本人は戦争がとても上手で強い。植民地化するのは困難だ。」と報告している。また、イエズス会のカブラルは「日本人は長らく戦乱の中に居たため、大変に勇敢だ、陸海において大変な戦力となる」と国王に報告し、日本人を雇い中国を征服しようと進言している。実際にスペインは、支那を征服するために、日本人傭兵6000人を調達しようと具体的に検討した記録があるという。
それは実現しなかったものの、この時代にスペインやオランダ、イギリスなどが東南アジアの植民地を奪い合い、植民地の内乱の抑圧が出来たのは、日本から大量の優秀な武器と傭兵を手に入れることができたからである。

しかし海を渡って兵役に付いたのは、いわゆる正規軍ではなく、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)、突波(とっぱ)等と呼ばれた忍者出身のものや、悪党と呼ばれる、ゲリラ戦を戦った地侍たちだった。山田長政もそれ以前の素性が不明なことから、忍者出身の可能性があるともいわれる。従って雇い主たちは、後々彼らの存在に手を焼くこととなる。

■当時日本は世界有数の武器輸出国
日本は1543年に種子島に伝来した翌年に鉄砲の大量生産に成功し、その後世界最大の鉄砲保有国となり、以後200年ぐらい世界有数の武器輸出国であった
例えば16世紀末では、イギリス国の保有する銃は全体で6千挺、九州の戦国大名の竜造寺氏の保有する銃が9千挺、石山本願寺が8千挺で一国の大名や寺社の保有量がイギリス全体を上回っていた。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案」するなど、性能も西欧の銃を大きく上回っていたと評価されている。(ノエル・ぺリン「銃を捨てた日本人」)
従って輸出量も多く、日本の平戸商館は、オランダの軍事行動を支える、東南アジア随一の兵站基地と化し、主力商品であった日本の銀とともに、平戸から積み出された軍需物資は、武器・弾薬のほか銅・鉄・木材・食糧・薬品にわたった。
付言すれば、刀も鎧も日本の物の方が優れていた。ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれたらしい。事実20世紀になって16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験が行われた。また15世紀の名工兼元の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。(ノエル・ぺリン)という。
このような技術力の高さが、大航海時代に日本が植民地化されなかった大きな理由の一つである。教科書では殆ど触れられることはないが、当時の日本の伝統技術や¥科学技術の水準は正しく評価されるべきだろう。

■江戸幕府の鎖国政策とは何であったのか
1621年、オランダ・イギリスの艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった。
しかし、友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、直ちに幕府(2代将軍:徳川秀忠)は『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と…武器輸出と海外傭兵の禁止令を発した。(藤木久志「雑兵たちの戦場」)この禁令はイギリス・オランダに大きな衝撃を与えた。彼らは執拗に工作を重ねたが、方針は転換できなかった。まもなく外国船の臨検が始まり、英蘭船からは輸出しようとしていた武器が没収された。
そして海外に長期に滞留した勢力(傭兵勢力、商業勢力等)の再入国も禁止した。

これらの事実は旧来のいわゆる「鎖国」に対する見方を大きく変えるものである。いわゆる「鎖国」とは日本にとっては武器と傭兵の禁輸出令でもあったのだ。
英国のバラード中将は著書で「徳川幕府がもし、大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない」と述べている。中将が言うように、当時の江戸幕府の力をもってすれば、白人勢力を東南アジアから一掃することも、或いは可能だったのかもしれない。しかしその場合、いずれは東南アジアの内紛に巻き込まれて、国力を削がれる結果になっていた可能性が高いと思われる。
最大の武器輸出国だった日本は、銃は幕府が許可したもの以外は製造禁止される。そして、朱子学を基にした「徳治主義」に転換していく。その後戦争に明け暮れ銃火器をエスカレートさせていくヨーロッパに対し、日本の治安は安定し、ヨーロッパに200年先駆けて神田上水や玉川上水が作られる等、都市も整備される。

これらに見られる経緯は、武家政権と商業・諜報勢力の性格の対比としても興味深い。

参考:「しばやんの日々」等 リンク

List    投稿者 nihon | 2020-11-18 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配No Comments » 

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