2009年09月08日

日本支配の構造38~岩倉使節団が、アジアで見たもの?

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岩倉具視を特命全権大使とする欧米視察団一行は、「明治の日本をどうする?」と言う命題を預かり、列強国欧米諸国の先進的文化を吸収します。
明治4年(1871年)11月12日に横浜港を船で出発し、太平洋を渡りサンフランシスコに上陸した。
そして、アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した。アメリカには、約8ヶ月もの長期滞在となってしまった。その後、大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を訪問した。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4ヶ月)・フランス(2ヶ月)・ベルギー・オランダ・ドイツ(3週間)・ロシア(2週間)・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイスの12カ国に上った。
欧米諸国を訪問した後は、スエズ運河を渡ってアラビア海、セイロン島、ベンガル湾、マラッカ海峡を渡り、シンガポール(英)、サイゴン(仏)、香港(英)上海(英)と言ったアジア諸国を訪問した。
当時のアジアは、オランダやフランス或いはイギリスと言った欧州諸国の植民地で、岩倉使節団一行は欧米諸国のアジア支配の悲惨な様子を目の当たりにするのだった。
岩倉視察団一行は、アジアを訪れ何を見てきたのでしょうか?
そして、その後の国内の政策にどう言った影響を与えたのでしょう。
今回のテーマは、岩倉視察団のアジアで見たものを紹介します。
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■8.弱の肉は、強の食■地球史探訪:岩倉使節団~サムライ達の地球一周より

その後、一行はロシア、北欧、イタリア、オーストリア、スイスを廻って、7月20日、フランス郵船のアウア号でマルセイユを出発。スエズ運河を通って、インド洋を横断して、緑したたるセイロン島に着く。しかし、ここは最初にポルトガルが海浜の地を占領し、次にオランダが砦を作り、今や全島が英国の支配下にあった。アウア号はここでカルカッタから来たアヘンを積み込む。奇しくも悪名高き英国のアヘン貿易の現場に立ち会ったのである。船がマラッカ海峡にさしかかると、オランダの植民地となっていたスマトラ島では、現地人の反乱が起きていた。アウア号にはオランダの大将と属官が乗り込んでおり、この戦争に向かう所であった。その後、アウア号はイギリスの植民地シンガポール、フランスの植民地サイゴンと寄港していく。一行はアジア各地が欧米列強に餌食にされている様をまざまざと見た。日本も他人事ではない。久米はこう書く。
弱の肉は、強の食。欧州人遠航の業おこりしより、熱帯の弱国、みなその争い喰うところとなりて、その豊饒の物産を、本州(本国)に輸入す。

一行に加わる久米は、欧米列強の背景にアジア諸国の植民地支配を「弱肉強食」と言い当てている。
又、英国人に対して甘い評価をしているが、一方ではアヘン貿易にみられるようなあこぎな商売をしていることも見逃していない。
そして、久米は、「日本はまだ国を開いて日が浅いので世界の事情に通じていない。だから、これからよく世界の現実を知らねばならない」と印しています。
「表向きは、人当りの優しい英国人、しかし裏に廻ればあこぎな人種」
とみていたのでしょう。
このまま放っておくと、日本も欧州の支配下=餌食になる事を恐れたのでしょう。
では、欧州諸国は、どの様な植民地支配を行ったのでしょうか?
■なぜイギリスは北米から撤退し、インドに進出したか

イギリスは1588年、スペインの無敵艦隊(アルマダ)を破り、スペインを衰退させ、さらに、1652年より三回にわたる英蘭戦争に勝利し、オランダの海上権を奪ってしまった。かくして17世紀後半になると、イギリスの植民地争奪戦争の相手はフランスのみとなった。
18世紀の英仏の熾烈な植民地争奪戦は、一つは北米大陸で、他はおもにインドで行われた。ヨーロッパによる南北アメリカの植民地分割は、欧州南部のスペイン、ポルトガルが南方の中南米に展開したのに、欧州北部の英仏が、北部の北米に展開したのは地理的宿命のおもしろさである。
このため、北米をアングロアメリカ、中南米をラテンアメリカと言うようになった。
(中略)
イギリスから多数の植民者が新大陸に移住し、イギリスの植民地が拡大し、力をつけるにしたがって、現地での独立運動がさかんになってゆく。フランスは現地の植民者勢力を応援した。そしてフレンチ・インディアン戦争(1754~63年)をへて、ついにアメリカ合衆国が英国から独立してしまった(1776年)。このためイギリスは、北米で失った利権をインドを中心とするアジアで取り戻すべく、この方面に全力を集中させることになった。
しかし、ここでも先発のフランスと熾烈な植民地争奪戦争を繰り返すのである。しかし仏軍は、ベンガルの豪族軍と結んで英軍とのプラッシーの戦いにいどむが、敗れてインドからついに撤退する。かくて、インドにあったムガル帝国は、イギリスの支配下に入ることになった。英仏の海外での植民地戦争は、ヨーロッパ本土において、英仏七年戦争となって対応するものだが、これだけでなく、両国は植民地争奪戦がもとで、1689年から1815年まで126年間も、ヨーロッパで熾烈な闘争を繰り返すことになった。
ヨーロッパ列強の、インドや東南アジア植民地経営は、東インド会社という一見平和な株式会社方式で進められたところに特色があった。東インド会社方式は、イギリスのほか、オランダにもフランスにも、デンマークにもスウェーデンにもあった。いずれも国王の特許状によって設立された。東洋貿易の独占権が与えられ、後に植民地経営の中心となり、武力をもって外国の同業者と激しく競争した。
イギリスの東インド会社は、1600年、エリザベス女王の特許状で設立され、18世紀半ば頃、フランス勢力を打倒し、土着君主を抑圧して、インドを完全に掌握してしまった。イギリスはインドの現地人を多数傭兵として使い、結局現地人同士が戦わされることになった。
現地人を犠牲にして植民地戦争を戦う方式は、以後すべての戦争に採用されたのである。

■岩倉視察団一行が、アジアで見たものは、なんだったのか?
イギリス人のアジア人に他する接し方:「和気親睦の世界」とイギリスのアヘン貿易:「弱肉強食の世界」は、和気親睦と弱肉強食の2面性を垣間見る。
使節団一行の久米は、英国人に対して甘い評価をしているが、一方でアヘン貿易にみられるようなあこぎな商売をしていることも見逃していない。
「日本はまだ国を開いて日が浅いので世界の事情に通じていない。だから、これからよく世界の現実を知らねばならない」と印している。
■強制栽培制度

現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。

■阿片戦争

1839年~1842年、清帝国と大英帝国の戦争。
イギリスによるインド産アヘンの中国への輸出が原因となって起きたのでこの名がある。
敗れた清は南京条約によって香港を奪われ、さらに賠償金の支払いと上海などの開港などを課せられた。これ以降列強の中国進出は加速する。
イギリス本国で製造された工業製品をインドに輸出し、インドからはアヘンを輸出し、中国から茶を輸入する、という三角貿易である。
このアイデアは大成功を収めた、と言いたいところだが、アヘンはどう考えてもまともな商品ではない。アヘンの流行が社会問題となった結果、清朝はアヘン禁止令を出すに至った。が、東インド会社は個人貿易商などをダミーとして、引き続きアヘンの輸出を継続した。

又、イギリス国内で視察団一行は、その貧富の差に驚かされたとも記されています。
■6.文明の悪を回避する■地球史探訪:岩倉使節団~サムライ達の地球一周より

一行は、世界一の繁栄を誇るロンドンにも陰の部分がある事を見逃さなかった。
イーストエンドの貧民街を探訪した木戸孝允は、極貧の宿泊所ではシナ人やインド人がアヘンを吸っている様を日記に記している。また人通りの少ない街路では窃盗や不良少年、博徒らが徘徊している。英国各地での貴族や富豪の豪勢な生活ぶりと比較して、その貧富の差に驚かされた。日本は、全般的には貧しいとはいえ、貧富の差はそのような激しいものではなく、治安も良かった。
岩倉具視はマンチェスターを訪れた時に、以下のように語ったとタイムズは伝えている。
われわれは世界を一巡し、訪問先の国々から西洋文化の長所はなんでも取り入れたいと思っています。われわれはそれと同時に、文明の発展に伴って各国に発生したと思われる悪の回避にも努めるつもりです。
使節団帰国前に発布された学制では、「身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ニ長ズルハ学ニアラザレバ能ワズ」と学問こそが世に立つ基であることを明らかにし、「必ズ邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」として、その後わずか5年ほどで2万6千校以上の小学校が設置された。平等の教育こそロンドンで見たような「文明の悪」を回避する方策だったのであろう。

岩倉視察団が、欧州諸国やアジア諸国を訪問して見たものは、
1.アジア諸国の植民地支配
2.国内での貧富の格差

近代国家成立の「裏の社会」だったのです。
使節団の一行は、なぜ仰ぎ見るような西洋文明の隆盛ぶりを目の当たりにしながら、なお劣等感に打ちひしがれることがなかったのでしょうか?
そして、単に西洋文明の良いところだけでなく、悪の部分もしっかり認識されていたことです。
その認識の違いの一つは、西洋人と違って金銭や物質と言った私権に価値を置かなかったからと言えます。
そうした、日本人の持つ資質の違いからその後の日本国内の政策や朝鮮や中国或いは東南アジアへの進出(侵略)のあり方も欧米人の略奪支配とはまた違った形で推し進められて行ったものと思われます。

List    投稿者 nakamura | 2009-09-08 | Posted in 03.アメリカの支配勢力と支配構造3 Comments » 

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コメント3件

 雑感 | 2010.02.25 11:24

東京地検もかなりヤバイ

 なにやら、近頃また「 政治と金 」なる言葉がゾンビのごとくマスコミの記事の中を徘徊しまくっている。なにやら2007年当時、つまり安倍内閣時代の自民党の恨…

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