GHQによって抹殺された歴史
GHQによる事前検閲は昭和20年(1945)9月から始まり、ピークは8000人の検閲官が存在して、新聞や雑誌からこれから出版される本や論文の原稿、私信に至るまでを徹底的に検閲し、プレスコードにかかる記述を削除させていた。
以下「しばやんの日々」より、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消させた文章をいくつか紹介する。
■ペリー来航の目的
「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に当然ならん。(中略)
…大英国はすでに東印度及び支那の諸海湾に於て、最も重要なる地点を占有し居れり。殊に支那の海湾に於て然り。
彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制圧し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…
幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』政府(イギリスをさす)に手を触れずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』中の「ペルリ提督日本遠征記」の引用)
この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。
また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。
「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上)
■アメリカ西部から太平洋→中国への侵略
1845年 テキサス併合、1846年 オレゴン併合、米・メキシコ争勃発、1848年 米メキシコ戦争終戦テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを奪取、1849年 ハワイと和親条約締結、1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航
と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
北米大陸をほぼ手中にした後は、アメリカの領土拡大は西に進むしかない。カリフォルニアで砂金が発見されたことからゴールドラッシュが始まり、西へ西へという辺境開拓の勢いはさらに強まった。こんな時期にペリーが浦賀に来航することの意味は、日本領土の侵略目的しか考えられない。
ちなみにアメリカは、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強め、先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥し、ペリー来航の翌年である1854年にはカメハメハ三世に対して併合要求を突き付けている。
また朝鮮に対しては1871年にアメリカはアジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、陸戦隊を上陸させている
以下は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中国民主化と米国の役割」という論文だが、引用部分がすべてGHQにより削除されている。
「ゴールド・ラッシュ、人口の大移動は、新大陸横断鉄道の建設を刺激した。何萬といふ支那人苦力によつてきづかれたユニオン・パシフィック鐡道がはじめて大西洋と太平洋をむすんだのは1869年のことである。(中略)」「米国人にとつては、辺境といふものは、いつも西にあつたので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になつて、あたらしい辺境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への関心は、米國として、ある意味では、歴史的因縁と言えよう。まして、対支貿易は、クリッパー帆船の昔から、もつと有利な商売として、ニユーイングランドから南米の南端を迂回する航路が開かれていた。ニ大洋の結合、支那にいたる距離の短縮…が至上命令とされるにいたったのも、自然の勢であつた。」
■もはや太平洋に邪魔者はいない
アメリカの究極の狙いは中国のマーケットにあったが、当時の中国は既に英国が大西洋航路で利権を押さえており、それに対抗するためには、アメリカは太平洋航路を開拓するしかなかった。その目的を達するためにアメリカには、ハワイも日本も必要であったというわけである。
太平洋戦争で日本が敗れた1945年8月14日付のニューヨーク・タイムスの社説にはこう書かれていた。「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ。」
この他にもイギリスによるインド統治によって地租は3割から7割に上がり、その結果総計死者3000万人以上に及ぶ大飢饉を発生させたこと。6割を超えるインドの識字率が20世紀には一割にまで低下していたことなど、インドやシナに関する記述も抹殺されている。
日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、GHQがこの考え方を日本国民に浸透させるためには、「諸国民」が侵略国であるという歴史であっては都合が悪かったのだろう。
同じく憲法には 「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
とあるが、検閲制度が廃止されるまでの2年半はGHQは堂々と憲法を破り、検閲者も憲法違反の仕事にともに従事していたのである。
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