2019年06月04日

正当化観念の出自~旧約聖書 創世記とは~

近代思想(自由・平等・博愛等の観念)は、キリスト教を下敷きにした価値観念だが、近代以降急速に発達した西欧科学もまたキリスト教を源流にしている。

キリスト教は一神教であり「創造主(神)」によって「人」は創られたとされる。さらに「自然」とは神が人に与えたもので如何様に征服してもよいとされている。これは旧約聖書の創世記に記されているが、この価値観はユダヤ教の段階ですでに出来上がってたことが分かる。

「神との契約」という特殊な観念がユダヤ教にもキリスト教にもあるが、このような観念がなぜ生まれたのか。

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◆モーゼが契約したヤハウェとは

旧約聖書によれば、モーゼはシナイ山で神ヤハウェと契約を結んだとされる。

このシナイ山ならびに一帯のシナイ半島は、古代エジプトの銅鉱山があったとされる。ナイル川周辺に生産地を持たないエジプトにとってシナイ山は、武器生産の一大中心地だった。ところがエジプト王朝の銅生産は紀元前1200年頃に途絶え、その代わりにアジア地域からの輸入に切り替わっている。

この紀元前1200年頃は、モーゼがシナイ山でヤハウェと契約を結んだとされる時期とも符合する。

これは、モーゼをリーダーとするヘブライ人の集団がエジプトを脱した後、このシナイ山の銅鉱山を制圧し、武器生産の基盤を手に入れたことを意味している。制圧といっても、おそらく武力制圧ではなく、モーゼがヘブライ人達に施したように、おそらく観念的な操作(なんらかの洗脳)によるものと考えられる。この瞬間にユダヤ教が生まれたと言って良い。

シナイ山を手に入れたこと、すなわち追われる身だった自分達が力(武器生産)の基盤を手に入れることを実現したこと。これを「契約」と称した。ヤハウェとは、シナイ山で信仰されていた山の精霊の一つであるという記録があり、モーゼはこの精霊信仰を利用して、「神=ヤハウェとの契約」というように、制圧行為を自分達の都合の良いように正当化した。

自分達が武器生産の手段を手に入れたこと、エジプト軍から追われる身だった自分達が、反撃・侵攻する側へと転換したこと。これが「神との契約」の正体と言える。

 

◆荒野で生まれたユダヤ教

肥沃なナイル川流域から逃れたモーゼ一行がシナイ山にたどり着くまでの道程は、見渡す限りの荒野だった。

水も十分に飲めない過酷な自然環境での逃避行は、自然に対する否定視を増幅させ、武器=力の基盤を手に入れると同時に否定視は敵視となり、自分達の存在を正当化していく。それが選民思想と、山(銅鉱山)から銅製武器を作るという行為を通じて「我々は自然を征服する」という正当化観念を生み出す土壌となった。

 

◆約束の地カナンとは

武器=力の基盤を手に入れたモーゼ達は、メソポタミアでの略奪闘争に乗り出すがことごとく敗北。おそらくヤハウェとの契約後の「40年間の放浪」は、この闘争敗退を繰り返していた時期を指すと考えられる。

そしてようやく制圧出来た地域が、カナン(パレスチナ)だった。当時のパレスチナ地方は、武力国家勢力から外れた他民族の連合による都市国家だった。約束の地とは、この弱い地域を制圧したことを正当化するためのものだった。

つまり旧約聖書とは、古代メソポタミヤ、エジプトの国家間武力闘争のさ中で、モーゼに率いられたヘブライ人が荒野を彷徨った後に力の基盤を手に入れ、略奪部族と同じように略奪闘争に突入していったこと、しかしながらその中でことごとく敗退していったこと、その末に辺境の弱い地域を征服したことを正当化する為に書かれた物語だと言える。

 

 

 

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