2008年03月31日

『アメリカの共和党と民主党』10・・・アメリカ移民の歴史(2/3) :1880年代~現代

『アメリカの共和党と民主党』9・・・アメリカ移民の歴史(1/3) :独立~1880年代の続きです

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■世紀転換期以降の新移民の大量流入(第三期)

1890年代は、さまざまな意味でアメリカ合衆国史のターニング・ポイントであった。

第一には、1890年にフロンティアが消滅しアメリカ史の第一期は終わった、という意味においてであり、また別の意味では、1890年代にアメリカが世界第一位の工業国になり、帝国主義的海外進出を開始してゆく時期にあたるゆえでもある。

アメリカ移民史においても、1890年頃を境に大きな変化が見られるようになる。
それまでの西欧・北欧系にとってかわり、南欧や東欧系移民が移民の主流を形成してゆく。東洋からの「新移民」が目立ち始めるのもこの頃からである。

そして、このアメリカ移民史の転換期以降、先発の移民と後発の移民との間の経済的・社会的・文化的摩擦による民族間軋轢が生じる。

新移民に対する敵意は1880年代に生まれ、1890年代の国民意識昂揚の時代に広まった。移民の合衆国への同化をはかるグループがあった(進歩派)一方で、KKKは反黒人・反カトリック・反ユダヤの暴力的キャンペーンを展開した。19世紀末に移民反対運動をした者は、WASP、人種差別主義者の他に、労働組合指導者(アメリカ労働連盟など)や安価な移民労働の競合を心配した黒人指導者も存在した。

また、第二次世界大戦後にアジアやラテンアメリカからの移民が増えると、マイノリティ同士の対立が起こってきた(それまではマイノリティ対マジョリティの対立が主流だった)。
特に、黒人とヒスパニックの関係がこれに当てはまり、後からやってきたヒスパニックの方が経済的な成功を収めているため、黒人にとっては不満に一因となった。

      〔1910年の出身国別移民比率〕
       出身国         比率(%)
       ドイツ系・・・・・・・・・・・・17.1
       アイルランド系・・・・・・・10.0
       イギリス系・・・・・・・・・・6.5
       イタリア系・・・・・・・・・・・9.9
       ポーランド系・・・・・・・・・6.9
       オーストラリア系・・・・・・6.3
       ハンガリー系・・・・・・・・・3.7
       その他・・・・・・・・・・・・・39.6
       計            100.0
 

では移民層が転換したことで、アメリカにはどんな変化が
まずは、各移民の特徴を見てみましょう~

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【イタリア系移民】

イタリア系移民の多くは、イタリア半島南部やシチリア島の出身である。これらの地域には、発達した大土地所有制の下、細分化された土地を過酷な小作条件で耕作する貧農たちが大量に存在した。彼らがイタリア系移民の主力をなした。

アメリカ移民史において、イタリア系移民は、ドイツ系に次ぐ規模で流入した。
1820年から1977年までに528万人余を数えるが、大規模な移住が展開されるのは、1880年代以降であり、20世紀の最初の10年間には、204万人を超える人々がアメリカに入国している。

1880年代以降のイタリア南部やスカンディナビアなどからの移民は、アメリカ農業の飛躍的発展により、ヨーロッパの遅れた農村地帯が解体され、そこからはじき出されて大西洋を渡ってきた貧農である。彼らは、世界最大の工業生産高を90年代以降誇ることになるアメリカの東部、中西部の工業地帯の低廉な労働力として吸収されてゆく。

こうして、イタリア系移民の大部分は、シカゴ、ニューヨークなどの大都市に「リトル・イタリア」と呼ばれる彼らだけの街区を形成し、都市労働者となったり、床屋、靴屋などの小自営業に従事する。
彼らは、政治的・宗教的理由で故国を追われたわけではなく、従って、故国との関係を断ち切ることは少なく、財をなして故郷に錦を飾るという意識も強かった。カトリックである彼らもまた、アイルランド系と同様、反カトリシズムの風潮にさらされたが、カトリック教会を中心に、強い家族的絆と、同胞意識に支えられ、しだいに社会上昇してゆく。

【ユダヤ系移民】

ユダヤ系移民も、植民地時代にすでにアメリカに渡っている。が、これら初期の移民は、セファルディムと称される旧イスラム圏のユダヤ人であり、数もごく少数であった。
旧移民の時代には、19世紀中頃から、人種論的反ユダヤ主義の風潮が拡がるなか、ドイツや東欧から、アシュケナジムと呼ばれるユダヤ人がアメリカに渡航するようになり、合衆国のユダヤ人人口は、1880年に、25万人に膨れ上がっている。

が、なんといっても、ユダヤ系移民が大挙、奔流の如くアメリカ社会に流入してくるのは、1880年代以降である。
1880年代のウクライナで、ユダヤ人に対して大規模に略奪・暴行・殺人などが行われるようになり、また強制移住等、迫害され、この時期以降、ロシアおよびロシア支配下のポーランド等から、アシュケナジムが、大挙合衆国に避難・移住を始めるのである。
その数は、1880年代から第一次世界大戦直前までの30年余の間に200万人を超えたといわれる(これらのユダヤ人移民の多くは、出身国別の移民統計表のなかでは、ロシア出身のなかに包含される)。

また、ナチス・ドイツの第三帝国がヨーロッパ大陸を席捲した第二次大戦中も、数多くのユダヤ人がアメリカに渡った。
第二次大戦中に、ヨーロッパ各地からアメリカに移住したユダヤ人の数は、約37万人を数える。

こうして、今日、アメリカ合衆国は、約600万人といわれるユダヤ系市民を抱えるに至っている。イスラエルのユダヤ人を上回る数字であり、むろん、ディアスポラ(ユダヤ教徒離散民)が移住する国家としても最大である。

これらユダヤ系移民は、時期的には新移民の時代に移住してきたわけであるが、いくつかの点で、その他の新移民とは異なる特質をもつ。

第一に、彼らは、ポグロム、ホロコースト等の厳しい迫害を逃れてきた人々であり、しかもイスラエル建国(1948)までは、もともと帰るべき祖国をもたない離散民であったという点である。当然、移民の形態も家族ぐるみであり、その点でも、単身赴任的移民の新移民とは事情を異にする。それゆえ、出稼ぎ的性格の強い他の新移民とは、同化・定住への意欲という点で決定的に異なる。

第二に、ユダヤ系移民は、知的水準の高い者が多く、また伝統的に商業活動の才覚を備えていたという点である。

このような事情の下、ユダヤ系移民は、商業活動から身を興し、とくに衣服産業などの分野で大規模な商業活動の場を広げてゆく者も出た。また今日では、ユダヤ系市民は、アメリカの政財界に抜きがたい力をもち、ユダヤ系ロビイスト等の活動を通じ、アメリカの政治外交、とくに対中東政策などで、強い影響力を行使するに至っていることは、キッシンジャー外交などにみられる通りである。

【ポーランド系移民】

最初にアメリカに渡ってきたポーランド人は、1608年にジェームズ・タウンに連れてこられた6人のポーランド人職人であったといわれるが、ポーランド人移民が大挙流入しはじめるのは、1864年以降である。
以後、1930年までに、約300万人のポーランド人が渡米したといわれ、今日のアメリカのカトリック系の「エスニシティ」のなかでは、アイルランド系、イタリア系に次ぐ人口を占めている(人口比2%弱)。

【中国系移民】

中国系移民が初めてサンフランシスコに渡米したのは、1848年といわれている。以降しだいに増大したが、そのピークの年の1882年でさえ、その数は4万人に届かず、その年の移民全体を占める比率は5%に過ぎなかった。

この時期の中国系移民は、主に西海岸から東へ延びる大陸横断鉄道の建設労働に従事してゆくが、1870年代には早くもカリフォルニアで中国移民排斥運動が起こる。
当初の排斥運動は、彼らが低賃金の労働契約に甘んじるため、白人労働者の労働機会を奪うという経済的理由が挙げられたが、しだいに人種差別様相を呈してゆく。
中国の国外移民は、言語障害も厳しく、在米華僑は、アメリカ社会に同化し融け込むことに意欲的でなかった面もある。
ともあれ、70年代から80年代にかけて、西海岸の諸都市では、白人優越主義にもとづく中国系に対する襲撃・暴動が繰り返されたのである。

こうした、白人優越主義の風潮をうけ、1882年には、いわゆる「中国人排斥法」が連邦議会で成立した。その後も「排斥法」の強化がはかられ、1904年には、ついに中国からの契約労働者移民の禁止期間が無制限にされるのである。

今日、中国系アメリカ人は、カリフォルニアを中心に40万人余が存在する。

【日系移民】

中国系移民が激減してゆくなかで、それに替わる形で対米進出するのが日系移民である。

日系移民は、1868年の官約ハワイ移民153人を先駆けとして、80年代から本格化する。本格化するといっても、年間1000人を超えるようになるのは、90年代に入ってからである。
以降、1977年までに40万人余の日本人が移民するが、そのうち約8万人は帰朝したといわれる。

日本移民もまた、この帰朝者比率20%という数字が示す通り、日本に対する祖国意識が強く、したがって出稼ぎ的意識も強かったと思われる。

移民排斥の矛先は、日本にも向けられるようになり、日本人移民の制限が進められ、1924年の割当移民法の制定により、日本人は帰化不能外国人とみなされ、事実上、日本人移民が禁止されるに至る。

それでも、日米開戦時に、アメリカ本土には16万8000人余の日系人が移住し、そのうち11万人以上が強制収容され、戦後補填となったことは周知の通りである。

1980年の国勢調査によれば、合衆国に住む日系人は58万人余を数え、ハワイ州の21万人余のほか、本土はカリフォルニアを中心に37万人余が分布している。

【スペイン・メキシコ系移民】

スペイン系・メキシコ系移民の祖先は、アングロ・サクソン系住民の到来以前に、今日の合衆国南西部に住んでいた。
合衆国南西部は、19世紀初頭までは、ラテン・アメリカ圏に入っていた。
スペインの植民地支配時代を経て、1821年には北米大陸南西部から中米にかけてのスペイン領からメキシコが独立するが、独立時に合衆国を上回る領土をもっていたメキシコが、合衆国にテキサスや西海岸などを奪われた。これらの合衆国南西部のその後の経済発展が、スペイン系・メキシコ系移民をひきつけるのである。

1910年に始まるメキシコ革命が、移住の流れを促進し、多くのメキシコ人がリオ・グランデ川を渡ってゆく。その流れは、今日まで断続的にせよ続いている。
また、1898年以降、アメリカ領となったプエルト・リコからの本土移民も、スペイン系であり、今日プエルトリカンは、ニューヨークを中心に約200万人が住む。

これらスペイン系移民のうち、メキシコ系アメリカ人は、60年代半ば、ブラック・パワー、レッド・パワーの動きに触発され、チカノを自称し、エスニシティとしての自己主張を始めている。

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以上が、各時代の移民の変遷と特徴です 😛

ちょっと長くなってしまいました ので、次の記事で、ポイントを整理します
もう少しお付き合いくださいね

List    投稿者 nisi | 2008-03-31 | Posted in 03.アメリカの支配勢力と支配構造5 Comments » 

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コメント5件

 匿名 | 2008.07.18 13:44

有名なジャーナリストですが、誰かからお金をもらって書いているのでしょうか・・・?
それとも、知らない間に利用されているんでしょうか?

 堤康司 | 2008.07.25 5:09

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 いつもながらの世界政治の複雑な方程式です。しかし客観的な世界状況と照合すれば案外簡単に解が見いだせるのですが、ここが国際政治・外交の面白さでありましょう。そこには国益を口ではいっていますが、その裏には政局にある人間たちの飯のタネが優先されているのです。いづこも同じで、国益
の前に省益すなわち国策担当者自身の一生の飯のタネを考えているのです。その面でいうなら日本はアメリカの考えもあって官僚行政にメスが入っている今のうちにキレイに掃除をしておくべきです。まづ己を律せずして他人を責められません。

 匿名 | 2008.07.25 14:16

アメリカがイランに外交官を駐在させるらしい。30年ぶりの歴史的な和解になるとのこと。

 ireland hermes | 2014.02.02 4:01

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