人々は明治政府をどう見ていたか
明治維新と江戸時代の見直しと再評価が進みつつある。
1868年(明治元年)明治政府は王政復古を宣言し、戊辰戦争に突入する。明治2 (1869) 年の「版籍奉還」では、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還した。
では、その当時の明治政府に対する情勢(民意)はいかなるものであったのだろうか?
■全国各地で百姓一揆と暴動が起こっていた。
明治2年4月26日に大久保利通が岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書かれており、新政府の危機感がよく伝わってくる。
昭和16年刊の『維新史 第5巻』は、この時期のわが国の状況についてこう記している。「この頃また農民の暴動が各地に起こった。惟(おも)うに封建制度の撤廃は、数百年来領主対領民の関係を維持し来れる農民階級にとっては、生活の安定を脅かされることが大であったので、保守的傾向を有する彼らはこれを喜ばずして、所在に蜂起したのである。」
明治2年 2月、盛岡藩の領民が旧領主南部利恭の移封に反対し党を組んで反対した
明治2年10月、高崎藩の農民が岩鼻県(上野国、武蔵国内の旧幕府領・旗本領)と租法と異なるのを理由として蜂起
明治2年11月、忍藩(おしはん:武蔵国埼玉郡に存在した藩)管地の伊勢国数郡内の領民2万人が騒擾を起こした
明治2年12月、山口藩兵が藩庁の兵制改革に不満を抱き2千名が脱退
明治3年1月、上記の隊士千余名が兵器を以て山口を逆襲し山口藩庁を包囲。2月に巨魁35人が捕らえられ鎮圧した
明治3年 1月、浜田県(現在の島根県石見地方、隠岐諸島)下の士民が浮浪の徒の煽動により蜂起
明治3年3月、宇和島藩の農民が年貢の苛酷を理由に蜂起
明治3年10月、尼崎藩の農民が大阪・神戸間鉄道敷設の為に田畑を収用せられるのを不満として暴動を起こす
明治3年11月、膽澤県(いざわけん:現在の宮城県北部・岩手県南部)の農民が凶作のため租税軽減を嘆願して蜂起
明治3年11月、日田県の農民が県庁を襲い掠奪暴行を働く
明治3年12月、府内藩(豊後国大分郡府内周辺を支配した藩)の農民が雑税の廃止を求めて騒擾を起こした
さらに、新聞記事を渉猟して編纂された『新聞集成明治編年史. 第一卷』の目次を見るだけでも、上記の他全国各地で一揆や反乱が起きていることがわかる。
明治2年 信州上田の騒擾(9月)、美濃の一揆平定(9月)、上州農民騒擾(10月)、勢州にも農民蜂起(11月)
明治3年 浜田県士民沸騰(1月)、長藩奇兵隊蜂起(1月)、徳島藩暴動始末(8月)、豊後各所に浮浪人出没(11月)、信州路土民動揺(12月)
江戸時代にも確かに百姓一揆はあった。しかし、それは領主や幕府に対する平穏な請願行動が殆どで、百姓達は武器や猟銃なども所持していたが、それが政府(幕府や藩)に向けられることはなかった。しかし明治初期の一揆時には百姓達は武装しており、その銃口を政府に向けている。彼等にとって正統な政府とは到底認められなかったからであろう。
ところが、わが国の教科書では、この2年間に全国各地で暴動が相次いだことは何も書かれていない。
■新政府軍は各地で狼藉を繰り返していた
江戸における官軍の所業
「相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったことである。」(鈴木荘一『開国の真実』)
また東北では(戊辰戦争の奥羽列藩同盟「倒薩の檄」現代文翻訳)
「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ。鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。官軍は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。「戊辰戦争 裏切られた明治維新」)
恐らく明治の大衆の多くにとっても、明治政府は官軍は、このようにおよそ正統性のない輩として写っていたのだろう。だからこそこれほどの反政府行動が起こり、「勝てば官軍」という言葉さえ生まれたのである。これらの一揆は、薩長土3藩からなる御親兵によって力による鎮圧が図られる。しかしなお一揆は徴兵制、学校令(明治5年)を巡って明治10年位まで頻発し続けたのである。
参考:「しばやんの日々」リンクhttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/category20-1.html#%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%96%B0%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%89%B5%E6%88%90%E6%9C%9F%E3%81%AF%E5%85%B5%E5%8A%9B%E3%82%82%E8%B2%A1%E5%8A%9B%E3%82%82%E6%A8%A9%E5%A8%81%E3%82%82%E4%B9%8F%E3%81%97%E3%81%8F%E3%80%81%E3%81%84%E3%81%A4%E7%93%A6%E8%A7%A3%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%82%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F
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