裏天皇の正体7~葛城(+秦)⇒裏天皇の諜報組織(修験道)
「裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク」で紹介した論点は、次の通りです。
非人(朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民)に対する社会政策を、加茂役君小角(役行者)を源流として西大寺が担っていた。
彼ら非農業民(非人)の収入源は専ら市場(散所)活動であり、その上納金が西大寺に貢納され、西大寺基金となった。
南北朝時代になって、偽装死去した南朝護良親王とその末裔である伏見殿(裏天皇)が西大寺-極楽寺ネットワークを取り仕切るようになる。
折からの市場(散所)経済の興隆によって、西大寺の事業は莫大な収益を上げ、それを財源として、伏見殿(裏天皇)は港湾を整備するとともに海外進出をはじめ、諜報員
皇統奉公衆(高等忍者)を海外に派遣する。
この説で南朝系の伏見殿(裏天皇)の諜報組織の源流となっているのは、朝鮮からの流入民や国内の逃散農民の社会政策を担っていた役行者(役小角)である。
役行者は修験道の開祖と云われるが、その正体は何か?あるいは修験道とは何だったのか?
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『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「役小角(えんのおずぬ)」から引用する。
小角の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する臣王家葛城氏の子孫の事で、臣に下った後、「一部が賀茂氏を名乗った」と言われている。
「役(えん)」は、特定の職掌をもって宗家・賀茂氏に使えた賀茂氏の分家の氏の名を意味する。
従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事になる。
上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。
修験道の開祖・役小角が活躍したのは大化の改新の後、天智大王(天皇)の御世から天武大王(天皇)の御世に代わる670年頃で、712年編纂の古事記や720年編纂の日本書紀よりも古い時代の事である。
小角が、大海人皇子(天武天皇)が即位したと時を同じくして陰陽修験道を始め、その修験道を組織化して行く所から、この陰陽修験組織成立には天武天皇の意向が存在したのではないだろうか?
役行者とも称される葛城氏・賀茂小角は、朝廷の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の武装組織兼布教組織の長官ではないだろうか?
引き続き、『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「陰陽師=国家諜報機関説」
修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、賀茂・葛城家に伝わる「呪詛信仰(事代主神)」の呪術、占術、元々列島に存在した八百万(やおよろず)の「原始自然信仰」と、渡来して来た中世の「妙見信仰・北辰信仰」や「道教」を習い合わせて誕生し、その後の仏教などの渡来宗教にも影響を受けて行くのだが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えないのである。
疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では、余りにも話が綺麗過ぎる。つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。
そして、「役小角」の修験道師育成には影の目的が存在した。
占領支配された先住民(蝦夷)も、征服者達に隷属・同化した者ばかりではない。大半は戦闘を繰り返しながら、東に、そして東北へと住居を移して生き残りを図ったが、中には取り残された者達も居る。当然見つかり難い処に身を隠し、ゲリラで長期に抗戦した集団も各地にいた。
古事記、日本書紀、各地の風土記に登場した土蜘蛛(つちぐも)族達は、こうした先住民(蝦夷)の抵抗の事で、支配者も枕を高くして眠れない。
小規模の相手に対して、どんな対策がなされたのか?
山深く移動し、戦闘、説得帰順の為の宗教的知識まで持った古代のレンジャー部隊が山伏(修験道師)の影の役割で、つまり修験道師は帝の「工作機関・秘密警察」ではなかったのか?
地方により違うが代表的な所で、ゲリラ蝦夷の呼び名は鵺(ぬえ)、土蜘蛛(つちぐも)、鬼(おに)、・・・この本拠の一つはどうした訳か、大和の葛城山・大江山などの山々である。
つまり、修験道の「行動守備範囲」と重なっているのである。
大和朝廷によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された。
王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」から、武力を統治の裏付けとする事は建前上矛盾する。
矛盾を解消する為に、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」では、結果的に地方における警察力欠如の環境が成立してしまう。
しかし先住民の山岳ゲリラは続いていた。それに、征服部族同士の対立も散発的に起こっていた。
そこで中央では、最先端の科学力と信仰理論を修めた人材を結集して秘密警察の修験道師組織が内々(本音の部分)で編成される。
列島に渡来した道教が、日本オリジナルの陰陽道に変形して行った背景には、事代主を祭る賀茂氏(葛城氏)の影響である。
つまり「お上(氏神)には間違いが無い」と言う神話を作る為に、性善説に立った建前を民衆に植え付けたのだ。
現代でもその神話的前提が未だに生きていて、馬鹿気た話だが、民間なら当然責任を取らされる事例と同様な事でも、現在の官僚の扱いに責任追及の仕組みがない。言い分としては、「お上に失敗や悪事は無い」が前提で有るから、「責任追及の仕組みは必要が無い」と言う真に都合の良い解釈に基づいているのである。
そして、修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、情報収集の為の「大規模ネットワークを持っていた」と言われて居る。
陰陽修験組織は当時なりの、今で言う「メディア戦略と情報操作」の為の機関だった。
古事記・日本書紀の編纂開始時期と役小角の陰陽修験組織の成立時期が一致しているところから、修験組織は全国津々浦々の集落に出向き、政治的意図を含んだ古事記・日本書紀の内容を民話や伝説として語り広げる「政府の広報活動も担っていた。」と考えられる。
山間僻地に到る民衆まで心服させる為には、役小角とその配下の神格化が必要だった。しかし、神になっては大王(天皇)の権威と同格になる。
そこで考え出されたのが、「会得(えとく)」と言う手段である。
難行苦行の末に超人的能力を会得した役行者が誕生する。
役小角やその配下の不思議な術は、当時渡来した仏教を通して中華文明の最先端技術を駆使した事である。
今で言う天文学、気象学、医学・薬学(治療術・治療薬から化学反応)、鉱物学(採掘から錬金術)、建築学、機械工学、など多岐にわたる最先端技術である。これが、民衆には人間業とは思えない奇跡に見え、陰陽修験は恐れられ尊敬される事になる。
つまり、葛城氏(その源流は秦始皇帝を騙して日本に脱出した徐福の一派)の諜報組織があり、その統括者が修験道の開祖と云われる役行者であった。
元々は、土蜘蛛や蝦夷と呼ばれた先住民(縄文人)を諜報や調略の対象としてたが、その後、朝鮮半島からの流入民や国内の逃散民対策も担うことになり、彼らを諜報員に組み込むことによって、諜報組織を拡大していった。
それが修験道や陰陽道である。
修験道も南朝も吉野や葛城を拠点としている(楠木正成も葛城近辺の勢力である)。
また、修験道の開祖役行者は葛城一派である。このことから考えて、南朝(裏天皇=伏見殿)の支持勢力は葛城であり、もっと云えば、葛城が裏天皇(伏見殿)を祀り上げたと考えるべきであろう。
また「裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏」で述べたように、南朝(裏天皇=伏見殿)のもう一つの支持勢力として秦氏がおり、葛城氏・秦氏の連合が南朝(裏天皇=伏見殿)を支えていたor祀り上げたと考えられる。
(それに対して、北朝の支持勢力は荘園領主、つまり武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、その主力は百済勢であろう。)
注目すべきは、
この南朝(葛城・秦連合)の諜報組織が作り出した(民衆に植え付けた)神話(建前)が「お上(氏神)には間違いが無い」であること。
間違いがないお上(お神)の威光で統治すると言う共認統合的建前と、武力支配は矛盾するので、「軍事力ないし警察力の行使」は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。実際、平安時代の朝廷は建前としては武力を持たない政権であった。
このような特異な制度が成り立つのは、日本人の縄文体質(受け入れ体質)の結果である。
縄文人は朝鮮半島から渡来してきた支配者を表面上は「お上」として奉りながら、心の底では「自分たちとは無関係なもの」として捨象してきた。つまり、日本人のお上意識とは、お上を捨象する意識なのである。
(従って、「お上には間違いがない」というよりは、「お上はどうでもいい」という意識である。)
他方、中国や朝鮮半島から来た支配階級(葛城・秦や百済勢)にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていった。世界の常識では当たり前の、力の原理に物を言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのである。これは世界的に見ても極めて特異なことである。すると、支配階級の側も力で制圧するのではなく、縄文人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活が第一という意識が形成されてゆく。
このように「みんなのため」「民の生活第一」という発想が日本の支配階級の間で形成されたのも、庶民大衆が縄文体質だったからである。
この和を旨とする縄文体質の日本では、政権は共認原理に基づく連合政権という形で統合される。従って、皆が共認できる統合軸が必要になる。その統合軸と成ったのが、(同じく連合政権であった)ツングース扶余族が持ち込んだ現人神信仰である。
そこで、葛城-不比等は、この現人神→万世一系の信仰に立脚して、天武を皇統に繋ぐために架空の系図を作成した。
この架空の系図(神話)に対して、朝廷の重臣たちが表立って異を唱えなかったのは、統合軸として万世一系の信仰が必要であり、嘘でも万世一系としておいた方が上手くいくと判断していたからである。つまり、共認統合のための方便である。
その万世一系信仰は、全国津々浦々に張り巡らされた神社ネットワークを通じて庶民にも流布してゆく。
その結果として、軍事力の行使は公式のものとしての存在を認めないという、世界でも稀な制度的建前が成立したのである。
ところが、その建前だけでは国家社会を統合することはできない。そこで、葛城の諜報部隊が暗躍していたのである。その主要な目的は諜報と調略(謀=政治工作を巡らして、敵を味方に寝返らせる)である。
縄文体質であるが故に日本では私権闘争においてさえ、直接的武力衝突よりも、その前の政治工作の方が重要になったのだろう。
ちなみに日本史上、調略を得意としたのは羽柴秀吉であるが、秀吉も葛城⇒裏天皇の諜報部隊に属していたのかもしれない。
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