2014年05月12日

裏天皇の正体16~朝鮮半島(百済)渡来の長州は常に分国・独立の危険性を孕んでいた

「裏天皇の正体15」では、「薩長同盟は、ロスチャイルドと手を結んだ百済(長州)+秦(薩摩)の連合では?」という仮説を提起した。

まずは、長州を検証する。

いつも応援ありがとうございます。

にほんブログ村 政治ブログへ

孝明天皇の皇子(睦仁)とスリカエられて明治天皇になったのが大室寅之祐と云われているが、大室家は山口県熊毛郡田布施町麻郷の小字である鞠府(麻里府)にある。この地は平安時代の中期頃から大内氏の拠点で、高麗からの渡来民たちの末裔が住民の多くを占めていた。大内氏の傭兵となった因島村上水軍も、漕ぎ手の大部分は半島からの渡来民の末裔だった。百済発祥の多々良姓を称した大内氏は、大内氏を頼って渡来してきた半島系民族集団を配下に置く在日居留民団の団長として存在していた。
『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾著 成甲社刊)「第二章 大室天皇はなぜ田布施にいたのか」「第三章 卒族たちの憧れは奇兵隊天皇」から抜粋・要約する。

周防国の特殊性は百済王族の琳聖太子の子孫を自称する大内氏の本拠であったことである。
山陽山陰地方は古来から朝鮮半島民の流入が絶えない地だが、平安時代頃に渡来してきた大内氏は、周防・長門を中心に支配領域を広げ、百済の琳聖太子の末裔と称した。琳聖太子は架空の人物とされているが、大内氏のその後の事績に照らせば、百済出身であることは疑えない。
半島渡来人の族種は当初は百済人だったが、やがて統一新羅人、さらには高麗人になるが、12世紀、伊勢平氏の頭領平忠盛は日宋貿易を始め、その嫡子平清盛も瀬戸内海の制海権を確保し、日宋貿易に本格的に進出した。そして清盛は海上要員として、高麗人を多数移入した。

1363年に南朝から北朝に帰順した大内氏は、周防国大内村から山口に本拠を移し、市街地整備を行い、後年に「西の京」となる素地を作る。この頃から琳聖太子の末裔を自称し始めた大内氏は、1399年に渡鮮して倭寇を討伐した功績に高麗王に対し百済の故地に領地の下賜を請願するが、成就の寸前で高麗王臣の反対により不成功に終る。

このように、足利氏に仕えながら高麗王にも秋波を送っていた大内氏は、ややもすれば分国・独立の意気を示したので、国体危機の前兆を感じさせた。室町幕府にとっては、この地の高麗系住民をヤマト文化に同化させることが最も重要な課題だった。民族性と文化の差異から発する断絶が列島社会に生じ、そこへ外国勢力が付け入れば、国体が危うくなるからである。当時の国内状況は、中国地方と北九州の数カ国が大内氏を国王として分国・独立し、李氏朝鮮を宗主国に仰ぐこともあり得たのである。

折りしも中国では、塩族上がりの漢人朱元璋が「紅巾の乱」を起こし、1368年に元王朝をモンゴルに放逐し、翌年には明を建てて洪武帝を称した。モンゴル帝国の外藩であった高麗国では、宗主国元の敗亡と明帝国の建国を受けて急激な変化が生じる。満州系女直族の李成桂はモンゴルの将軍でありながら元を裏切り、元の高麗における拠点である双城総管府を陥落させる手引きをする。この功績で李成桂は、高麗王から「東北兵馬使」に任じられて実質的傭兵隊長になったが、今度は明の洪武帝の密命を受け、1392年に高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建て、洪武帝に命じられて自ら朝鮮国王になる。

朝貢貿易による実利と、出自を百済王家とする所から、高麗との親和性が極めて強い大内政権が、李成桂が建てた李氏朝鮮を通じる可能性を無視できない状況になった。
15世紀になると、大内教弘は防長両国の他に筑前・豊前・肥前を合せて5カ国の守護を兼ねるが、少弐教頼と戦った時、対馬に逃げた少弐を討伐するため、対馬の部分割譲を李氏朝鮮に提案している。

f68_2 (1)

応仁の乱では山名氏の西軍に味方して細川氏の東軍と戦い、日明貿易では博多商人と組み、堺商人と組んだ細川氏と対立・抗争する。大内氏の輸出品は、石見銀山の銀・銅をはじめとする領内の産品だが、それまで輸入に依存していた絹織物の国産化も始めた。明国及び李氏朝鮮と交易した大内氏は、細川家と争った結果、日明貿易を独占し、山口=西の京はこの時代に最も繁栄した。16世紀には、イエズス会の宣教師ザビエルと会って、多くの進物を受け取り、キリシタンの布教を許可したが、部下の陶隆房の謀反によって大内氏は滅亡した。さらに陶隆房は毛利に滅ぼされる。画像はこちらからお借りしました。

室町中期以降の大内氏は、東アジア交易により日本一の経済基盤を有し、その財力で京畿方面から文化人を呼んで保護した。西の京の繁栄は京を凌ぎ、大内氏が輸入する明や朝鮮の文物の影響も加わって、独自の大内文化が発展した。
このように、外国文化と京文化を融合させた大内文化を、先進的とか国際的とみるのが今日の通説だが、実はそこに、独立分国による国体の危機が潜んでいたのである。

「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ3 ~高句麗に備えて亡流百済人と手を組んだ葛城~」「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)のまとめ4 ~蘇我滅亡→近江朝→白村江の戦い→壬申の乱の真相(百済人減らし)~」では、「6~7世紀には高句麗に滅ぼされた百済人の大量流入により、日本は共認統合が困難に陥った」という仮説を提起した。その要点は次の通りである。

【1】350年頃、強大化する高句麗の南下圧力に備えるべく、徐福→葛城ネットワーク(大和纏向政権)が傍流の伽耶の王を大王(崇神)として招き入れた。これが第一期大和朝廷であること。
【2】次いで391年~400年代には高句麗の広開土王・長寿王の南侵と475年の北百済崩壊を見た葛城は、百済と手を組んで高句麗に備えようとした。そして、百済の王族を大王(応神)として招き入れた。これが第二期大和朝廷(河内王朝)である。
【3】しかし、葛城にとって大きな誤算があった。
475年、高句麗による北百済の崩壊以降、百済人が次々と移住し、しだいに百済系の勢力が大きくなってゆく。とりわけ500~600年代には、532年金官加羅滅亡、562年の任那滅亡、660年百済滅亡に伴って伽耶人・百済人が大量に流入した。中でも百済人が増えすぎて共認統合が困難になってゆき、葛城+亡命百済人体制が混乱に陥ってゆく。

百済人の大量亡流による共認統合困難化→体制混乱に対して、葛城はどのような手を打ったのか?
600年代には、646年中大兄(後の天智)と中臣鎌足(後の藤原)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変と大化の改新→663年白村江出兵を経て→672年の天武が政権を簒奪した壬申の乱といった一連の政権交代劇が連続しているが、このクーデターも百済人が増えすぎたことによる体制混乱の表れである。

600年代百済は、唐と新羅の連合軍に圧迫され、660年に滅亡する。その前から大量の百済人が日本に押し寄せてきた。ここで葛城が打った手が百済人減らしor百済勢力の弱体化である。
①まず、百済人の一部を近江に移住させ、天智に近江朝を開かせた。大和・飛鳥・葛城の地から百済人を近江に隔離したのである。
②それと共に、(百済人の要請を受けて)663年負けると分かっている白村江(相手は唐)に出撃させた。この目的も百済人減らしである。
③そして、天智が没するや天武(おそらく葛城一族)を擁して壬申の乱を興し、近江朝を滅ぼした。これも百済人減らしである。

近江遷都→白村江大敗→壬申の乱という一連の百済人減らし、それに伴う大混乱をなんとか乗り切った葛城と藤原は、この混乱の後改めて統合を図る必要があった。そこで、百済人も含めて再統合するための観念が、日本書紀だった。

しかし、 前掲書によれば、朝鮮半島からの流民はその後も幕末まで陸続し、彼らの拠点となった長州の地は常に分派独立の危険性を孕んでいた。その典型が大内氏である。そして、時の政権や裏天皇にとって、この朝鮮からの流民勢力をどのようにして統合するか?が重大な政治課題となっていたことは想像に難くない。

幕末には、幕府には仏ロスチャイルドが、薩長には英ロスチャイルドが金を貸したように、対立する両勢力をけしかけ金を貸すことによって、どちらが勝っても必ず儲かるというのが金貸しの常套手段である。そのようにして金貸しは世界中の国家の支配権力を握ってきたが、常に分派独立の機を窺っていた長州の流民勢力は金貸しにとって格好の手先となりうる。だからこそ金貸しは長州に目をつけたのであろう。

百済からの亡流勢力であった大内氏は毛利氏に滅ぼされ、長州藩の上層は毛利家が支配しているが、下層には大内=百済の残党が大量に残っていた。この百済の残党がクーデターを起こし、藩政の主導権を握り、倒幕へと突き進んだのである。

 

List    投稿者 staff | 2014-05-12 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html/trackback


Comment



Comment