2014年03月22日

裏天皇の正体14 ~明治維新は、倒幕(金貸し)V.S.佐幕(裏天皇)の対立構造によって引き起こされた。~

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『倒幕』のキーマンとなった高杉晋作氏
(画像はこちらからお借りしました)
・前回の記事では、幕府の「尊王論」と「攘夷論」の起源と、「倒幕」への流れについてまとめました。
裏天皇の正体13~倒幕論は金貸しが仕掛けた世界青年党運動の日本版!!~

・今回の記事では、幕末から明治維新に至る『倒幕(金貸し)V.S.佐幕(裏天皇)の対立構造』を鮮明にしていきたいと思います。

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まずは、書籍『国際ウラ天皇 と 数理系シャーマン(落合莞爾 )』 より要約します。

●浪士組結成への周到なる工作
・京都で勤皇浪人の暴力沙汰が猖獗(しょうけつ)を極めたのは1862年の秋からですが、その切っ掛けとなったのは、前年秋の和宮一行の江戸城入りです。
・大庭から報告を受けた京都守護職の会津藩主松平容保は、計画通りに対応します。つまり、表向きは激怒に駆られたフリをしながら、浪士対策を一転強化したので、以後は京都守護職と尊攘浪士の対立が激化します。
・これが文久テロリズムの導火線になったのです。いわゆるマッチ・ポンプです。大陸中華国家では、人民は「上に政策あれば下に対策あり」と嘯きますが、わが日本では、伏見殿が「外から謀略あれば、われに対策あり」と呟いていたのです。
●現代史家が見破れなかった幕末版「公安マッチポンプ」
・松平春嶽が清河の浪士組募集案を安易に承認して、膨れ上がった人数のまま京都に送り込んだのも、清河の謀略を承知の上で、わざと京都で一暴れさせてから潰す術策と見たら筋が通ります。“公安”の手口は今も昔も同じですが、これだけ大掛かりな「公安マッチポンプ」が、今まで史家に見破られなかったことは、謀主の恐るべき政治能力です。
・一方で尊攘志士たちを煽りながら他方で浪士組を養って、互いに相戦わせたのは、浪士を以て浪士を討たせる戦略ですが、その目的は、両者に欧州テロリズムを実演させることで溜まったガスを炎上させてガス抜きを図ったのです。この策略の謀主は、具視や朝彦よりもはるかに欧州の政治事情に精通した人物と見なければならず、やはり旧伏見殿の禅楽隠居しかないでしょう。そして、この策略に大いに役立ったのが学習院だったのです。
・今後朝廷に対する陳情建白の類を受ける窓口になった学習院は、建言を許された志士たちの横議の場となって、天下の尊攘激論をさらに煽ることになります。全て朝彦の計算通りと言えば言えますが、むしろ朝彦の背後に、青年党テロリズムの炎上を見通した欧州事情通の伏見宮ネットワークの存在を洞察しなければなりません。
●目的を遂げた文久テロリズム作戦のその後
・南北朝両朝の対立が架空であったことを、矢野玄道は誰よりも知っていました。それなのに、1850年に枝吉神陽と副島種臣を使って、佐賀藩に楠公義祭同盟を作らせた目的は、これを嚆矢(こうし)として西南雄藩で南朝革命の雰囲気募らせるために、敢えて行っていたのです。9年後の1859年、伏見宮海外ネットワークの工作により日本に招かれたフルベッキがもたらした世界青年党の革命思想を、玄道が学習院で培養した青年党テロリズム菌に空気感染したのが長州藩・土佐藩などの激派浪士でした。
・そして青年党テロリズムの侵入を防ぐための、体制不満ガスの完全燃焼を目的とした「
文久テロリズム作戦」が終わったのです。

※著書では、「裏天皇の主導でマッチポンプにより倒幕派と尊皇派の小競り合いを誘発してガス抜きを行い、大きな争いが起きないようにコントロールしていた。」と書かれているが、本当なのだろうか?
その検証を行うために、以下るいネットより引用します。
るいネット「明治からの日本は日本では無い(3)」より引用。

●『倒幕テロリズム』の決起
1862年の夏、上海から国家転覆を企む男がひとり、日本に帰って来たことから歴史の歯車が狂い出す。
即ち長州藩を過激な倒幕運動に導き、国際金融資本の手先として動いた男、
高杉晋作である。
ここからが倒幕テロリズム開始の年となる。
それに先立つ22年前、清国では英国との貿易の結果アヘン輸入量が増大、大量の銀が国外に流出したため、英国との貿易を禁止。これを不服とした英国は貿易保護を理由に軍隊を派遣した。アヘン戦争である。
敗れた清国は南京条約を締結し、英国に香港を割譲、上海・広東・アモイ・福州・寧波を開港した。
つまり香港を始め上海等は英国に本拠地を置く国際金融資本家たちの集合地帯となっていた。
この連中は世界のほとんどを植民地にし、アジアもインド・ビルマ・シンガポール等を支配下におき、アヘンを撒き散らし、略奪・虐殺の限りを尽くして荒稼ぎしていた者たちである。
そして当時清は「太平天国の乱」真っ最中で、「滅満興漢!」(満族から漢族へ)のスローガンを掲げ、そこかしこに打倒・清を目論んでいる連中がいた。
おそらく高杉率いるグループはここで国際金融資本家や打倒・清を目論む連中から革命思想でも吹き込まれたのであろう。
そもそも高杉の師匠、吉田松陰は易姓革命の理論的根拠となっている「孟子」を信奉していた。
つまりその松陰から薫陶を受けた高杉が革命思想に取り付かれるのも故無きことではない。
フランス革命も後のロシア革命もこの国際金融資本家たちが資金の提供元とされていることを考えると、さもありなんである。
○1863年 薩英戦争
     長州藩、外国船を砲撃
     八月十八日の政変
この薩英戦争は先の「生麦事件」の報復攻撃であるが、そもそも薩摩は英国と密貿易で儲けてきた藩であり、ただの仲間割れである。
一方、当時の長州の藩論の主体は「攘夷」であり、長州の外国船の打ち払いはこれが実行された訳である。
この長州藩の考えていた事は、漁業を妨害する外国船を打ち払い、攘夷を唱えていた孝明天皇の信を得ようという、自衛と忠誠心であった。
しかし当の孝明天皇は
「長門宰相の暴臣のごとき、その主を愚弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し実美らを本国に誘引す。」
とお怒りになるのだが・・・。
従ってこの時点での長州は「倒幕」ではない。

※『倒幕テロリズム』は、1862年の秋に金貸しの手先である高杉晋作が長州藩を過激な倒幕運動に導いたことが契機となっている。
るいネット「明治からの日本は日本では無い(3)」より引用。

●長州藩の幕府への屈服。
幕府を倒してどうやって攘夷するのか。
それで京都守護職松平容保公や薩摩に命じてこの愚か者どもを京の都から一掃することにした。
それが「八月十八日の政変」
この辺りから攘夷テロによって治安崩壊に瀕していた京の都を勇猛果敢に守り、大活躍し始めるのが「新撰組」である。
次の年、「八月十八日の政変」で追い出された長州テロリストたちが、すぐにまた京都に集まって大規模なテロを画策する。
それを未然に防ぎ大打撃を与え、新撰組の名を天下に轟かすのが「池田屋事件」である。
この京都守護職松平容保公や新撰組が京の都を攘夷テロから守ってくれなかったらどれだけの死傷者がでたであろう。
○1864年 禁門の変
     下関戦争
     第一次長州征伐
長州藩は池田屋事件後すぐさま反撃に出て、あろうことか京都御所を包囲し総攻撃をかける。これが「禁門の変」である。
御所に向かって発砲するとは何と云う暴挙だろうか。しかも旗色が悪くなり逃げ出すのは良いが、京の都に火を放ち二万七千世帯を焼き払う無差別テロを起こす。
これで「勤皇の志士」とは聞いて呆れる。
これに激怒した孝明天皇、長州征伐の勅令を出す。それが「第一次長州征伐」である。
一方その頃、前年の長州からの砲撃で被害を受けた各国が英国を中心として連合艦隊を組織、報復攻撃へ出る。それが「下関戦争」である。
倒幕派中心グループが京都にいる間に仕掛けてくるとは、まるで共謀してたかのようである。
弱り目に祟り目の長州藩はこれではいけないと椋梨藤太たち保守派層によって藩内の倒幕派テロリストたちを排斥、藩体制の統一を実施し幕府への恭順を表明する。
討伐軍参謀を任されていた薩摩の西郷隆盛は、「禁門の変」の責任者である三家老を切腹させ、過激公家たちを長州から追い出し、何とか幕府にとりなす。
ここでやっと日本は統一された。決して腐敗して弱体化などしていない。
幕府は天皇と手を組み朝幕一体化し、幕権強化を成し遂げ、過激公家や長州藩のテロリストたちを鎮圧した。
これからも海外の諸勢力と渡り合っていける。

※『禁門の変』の時点では、薩摩藩は佐幕派であった。『禁門の変』により長州藩の上層部は会津藩+薩摩藩(佐幕派)に鎮圧された。しかし、金貸しの手先である長州藩の下層部はあきらめてはいなかった。
るいネット「明治からの日本は日本では無い(4)」より引用。

●高杉晋作らによる長州藩内部でのクーデター→倒幕一色となった長州藩
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『薩長同盟』成立のシーン
(画像はこちらからお借りしました)
○1864年 元治の内乱(維新前夜)
第一次長州征伐によって壊滅的打撃を与えられた高杉晋作や伊藤博文、公家三条実美たち過激派テログループが再び決起し「功山寺挙兵」でクーデターを起こし、椋梨藤太を中心とした保守派を排斥してしまう。それが維新前夜「元治の内乱」である。
ここからが「明治維新」の幕開けである。
このクーデターによって長州藩は完全に反日倒幕テロ組織、「新長州藩」となる。
すっかり国際金融資本の手先となっていた高杉晋作は藩政を掌握すると「開国」、これまで攘夷派が封鎖していた下関港を開港し外国船をどんどん迎え入れ、武器弾薬、外国製品で下関港は溢れかえった。
この辺りから今まですっこんでいた極悪人岩倉具視や武器密売人坂本龍馬、そして薩摩の売国奴たちが一斉に動き出し、時代は風雲急を告げる。
○1865年 米国、南北戦争終結。
○1866年 第二次長州征伐、薩長同盟 
ここでまた不思議な事に米国では、頃合を見計らってたかのように南北戦争が終結する。
後にその南北戦争で使われた武器を二束三文で買い叩き、薩長に高値で売りさばいていたのが英国の金融資本ジャーディンマセソン系列のグラバー商会である。麻薬貿易で暴利を貪った連中である。
そのパシリとなって暗躍した男こそ死の商人・坂本龍馬である。
その頃、薩摩のテロリストたちも動き出していた。
もともと薩摩藩論の主体は「佐幕」であり、「攘夷」ではない。
つまり、「開国」という悲願を内に秘めている。
そもそも薩摩は地理的に本土の末端であるということから、欧米との密貿易で藩政を賄い利益を上げていた。
薩英戦争などの遺恨は色々あったように見えるが、実は薩摩は初めから英国と手を結んでいたようなものである。
だから長州が「攘夷」から「開国」へ転身したところで利害が一致、それなら同盟を結んで自分たちに有利な新政権を立てることも出来ると考えた。
ここで薩摩は「開国」の為「佐幕」を捨て、「倒幕」に変節した。
長州と並ぶ二大反日藩、「新薩摩藩」の誕生である。
つまり薩摩も結局は日本の行く末よりも、自分たちの利益が大切であったのである。
その急進派の代表が、大久保利通と西郷隆盛である。
そして薩摩は長州の武器調達のため英国を紹介した。これを「薩長同盟」と言う。
一般的には「坂本龍馬が、薩摩と長州を結びつけた」と言われているがそれは間違いで、正確には「薩摩が、英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介した」と云うのが正しい。

※『開国=売国』を目的に利害が一致した長州と薩摩が手を組んで、倒幕に立ち上がる。
●まとめ
1862年(秋)の文久(倒幕)テロリズムの直前に上海から高杉晋作(金貸しの手先)が帰国。高杉晋作は倒幕テロリズムの陣頭役となる。(この段階では長州上層部は倒幕ではない。)
→裏天皇と幕府は、倒幕テロリズムを鎮圧する実働部隊として会津藩と新撰組を決起し、1863年8月18日の政変・1864年の禁門の変が起こる。(この段階では薩摩藩は幕府側の会津藩と組んで長州を攻撃)
これで挙国一致が実現されると思いきや、1864年高杉晋作(金貸しの手先)がクーデターを起こし、長州の実権を握り、長州は藩をあげて倒幕に向けう。
→それを見た薩摩もこれまでの佐幕(公武合体論)を捨てて、一気に倒幕へと変節した。おそらく薩摩は前々から英・ロスチャイルドと手を組んでおり、倒幕への変節機会を伺っていた可能性が高い。それほど薩摩の倒幕転向は急に起こった。
やはり倒幕テロリズム金貸しの差し金であり、それに対抗して裏天皇が会津藩・新撰組といった佐幕勢力を決起した。

◎以上より明治維新は、『金貸しVS裏天皇』を背景に起こった出来事であることが鮮明になった。

List    投稿者 yoshi23 | 2014-03-22 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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