日本支配の構造6 戦争と金貸し~日露戦争
戦争でいずれの国が正しかったのか悪かったのかというと歴史家好みの戦争談義にしかならない。
そういう説明はわかりやすく聞こえるが、実はトランプ手品のように別な方向に目を向けさせて机の下でカードをすり替えるのと同じ手口である。これが戦争を始める人間が得意とする【すり替え】である。ここでは日露戦争における国家と金貸しの関係を明らかにしてみたい。
以下は主にユダヤ人銀行家の日記(田畑則重氏の著書)より引用要約しています。
ここでいう銀行家というのは日露戦争の外債を引き受けたジェイコブ・シフのことです。
1◆シフと高橋是清の出会いはシフ側の計算されたもの
シフは1847年生まれでフランクフルトのユダヤ人街区でロスチャイルドと一軒の家を共有していた。・・後にシフはニューヨークのクーンローブ商会の共同経営者となり、国債と鉄道債券を取り扱う。政治と距離を置いていたモルガン商会に対して、シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ロシアのユダヤ人迫害に対して抗議するようにアメリカ政府に嘆願していた。
一方外債の発行を考えた高橋是清は1904年(明治37)2月、外債募集が閣議決定されると、アメリカに渡った。ロスチャイルド、モルガン財閥などは是清の申し出を断った。それでも是清はロンドンに渡った。そしてパース銀行ロンドン支店副支配人のアラン・シャンドに相談する。シャンドは明治5年から5年間、日本人に銀行業務を教えたが、そのとき彼の身の回りの世話をしたのが、少年時代の高橋是清であった。
一方高橋是清はロンドンでシフと偶然パーティで同席した。そのあとシャントはシフが日本公債を500万ポンド引き受ける用意があることを伝えた。これを高橋は《天佑》と思っているが実は満州鉄道の利権をもくろむシフ側の計算されたものであったと推定される。
というのはシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月ユダヤ人指導者の会合でシフは「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。私が日本の公債を引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の意見を聞きたい」と述べているからである。
結果として日本側の戦費調達担当者であった高橋是清とジェイコブ・シフが起債できた外債は、4回で8200万ポンド(4億ドル=8億円)。これは1904年当時、日本の国家予算の約2.5倍にあたる。戦費総額17億2121万円の約40%を外債でまかなったワケだが、それでも1年半で継戦不可能になったという。
2◆当時の彼らを取り巻く欧米列国と日本の状況
当時のロシアはフランスと親しく、それ以外の欧米の仮想敵国であった。フランスと対立していたイギリスとドイツはロシアの目を極東にそらす必要があった。当時ドイツは3B(ベルリンビザンチンバクダット)近東戦略をもって南下しようとしていた。イギリスも当時ボーア戦争(南ア)に手一杯であり、その結果日英独三国同盟という動きまで出ていた。
一方三国干渉以降ロシアの極東侵略は露骨になり、1900年暴徒鎮圧を名目に満州にまで出兵してきた。日本は露と戦争をせざるを得なくなったが、当時日銀は所有していた正貨で11700万円しかなく、戦争に突入すると兌換責任を果たせない状況にあった。
ところでロシアは満州を横断する鉄道(東清鉄道)を中国支配の柱としていた。その東清鉄道の資金源は露清銀行であり、パリの銀行群とロシア商業銀行に牛耳られ、背後よりロシアのロスチャイルドといわれたグンズブルグ男爵が支配していた。
3◆戦争をどう終わらせるかが国家戦略の重要な戦略
金子堅太郎(伊藤系)貴族院議員はルーズベルトとハーバートで同窓(1876年)であり、その人脈で戦争終結の立会人をルーズベルトに依頼しようとしていた。末松謙澄は、ケンブリッジ大学でイギリス蔵相のチェンバレンと同窓でイギリスで日本国の宣伝を担当。明石元二郎は、レーニンやポーランド革命家へ資金提供し、ロシアの内戦対策へ。彼らの働きは、ロシア国内で世情不安を作り出しフランスのロシアへの資金供給を止める要因になったといわれている。
4◆ポーツマス講和条約締結までの間に彼らが果たした役割
1904年:シフは日本公債の半分500万ポンドを引き受ける。他はパリのロスチャイルド家などから調達。ここではシフはロシアの外債引き受けに反対した。
同年11月10日:第2回外債 1200万ポンド起債。次年に旅順陥落。
1905年血の日曜日事件でロシアはすでに革命前夜の様相。
同年日本は財政上、戦争継続困難となり3月に3000万ポンド外債発行。
ここで金子はルーズベルトと陸軍長官タフト(後の大統領)に和平への調停者になってもらうことを依頼。ルーズベルトはロシアが敗戦により崩壊した場合日本の膨張主義が太平洋のアメリカの権益を侵すのを懸念し、和平問題について独仏と話し合うこととなった。
1905年3月までに日本軍は死傷者7万人で満州軍総参謀長児玉源太郎は、戦費の調達はは不可能と政府に進言。
4月:講和条件を決定。
5月:日本海海戦で予想外の大勝利。外相小村寿太郎は、手続きの方法他国への協議の有無まで米大統領に一任する方針。一方ロシア国内では戦争反対デモがおきていた。
6月9日:露は米よりの講和条件の覚え書きを受け入れた。
7月8日:4回目外債3000万ポンド発行。トータル8200万ポンド(約8億円)
8月10日:日本が要求した賠償金と領土の割譲を露が拒否。
8月29日:樺太の南半分を日本に割譲することで合意。
同時に露は韓国における日本の優先的利益を認め東清鉄道と遼東半島の租借権を譲渡。この直前8月25日にシフは駐米公使高平小五郎に手紙を送っていた。
その内容は
「ここで平和が回復しなければ日露どちらかが完全に疲弊するまで戦いを継続することになる。その場合私の理解では米英独の金融市場は、日本の資金要求に応える用意はない」
これでどんなに講和条件が不利であろうと戦争終結が絶対となった。
9月5日:日露講和条約調印。一方日本国内では日清戦争で勝利しながら三国干渉で遼東半島の返還を余儀なくされたような挫折感が広まった。17億円の戦費と12万人近い死者をだしても賠償金を得ることはできず。樺太の半分を得ただけでは国民感情は満足しなかった。この結果、講和条約反対の国民大会が起こり、東京市内の交番の7割が焼かれ死傷者は1000人以上でたほどであった。
続く
5◆シフ=ハリマン対モルガン商会の対立と日本戦略の変更
アジアの巨大市場を守りたいイギリス。一方フィリピン獲得に続いて太平洋に進出したいアメリカ。彼らにとって南進する露に抗するには、日本は支援すべき国であり、その支援の代償として満州の門戸開放を要求した。
ルーズベルトは露軍が海陸共にあっけなく敗れたため、米の好都合な日露の勢力均衡が実現不可能となったため日本戦略を変えざるを得なくなった。そのためハリマンを来日させ、日本が満州市場を独占する事態に先手を打ち、南満州鉄道の中立化と列国による共同管理を提案させた。ハリマンはシフとは近く、世界1周鉄道網の夢をもち、南満州鉄道を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたるアジア大陸横断鉄道を構想していた。日本首相桂太郎はこのハリマン提案に傾いていた。これには財界の大御所の渋沢栄一も支援した。戦時公債500万ドルの受け手でもあるハリマンは、南満州鉄道を組織する予備協定覚え書きを日本政府と交換した。
この桂=ハリマン予備協定に驚愕した日本全権小村寿太郎は桂にいった。「南満州鉄道は清国の承諾をもってロシアから日本に譲渡されるものであり、清国の承認がいるもの。講和条約で得た権益を日米シンジケートに売り渡す計画に民心は激昂し、暴動がおきる」と。彼は南満州鉄道の初代総裁となる後藤新平や元老院の井上馨に「ハリマン案はポ-ツマス条約の真髄を殺すものである。」と説いた。直ちに閣議によって協定拒否にこぎつけた。
これには裏があり、小村の南満州鉄道の経営の勝算は、金子堅太郎を通じてシフ及びハリマンとノーザンパシフィク鉄道の支配を巡って熾烈な争いをしたモルガン商会からの資金調達の目処が立っていたことである。
モルガン商会はポーツマス講和直後にルーズベルトのいとこであるモンゴメリーにルーズベルトを通じて金子に働きかけた。
「日本が南満州鉄道をハリマンに支配されれば日露戦争で得た利益を刈り取ることができなくなる。だから日本は自分の手で鉄道を修理整備して経営すべきである」とモンゴメリーは説いた。これに対して金子が日本の国庫は空、鉄道の修理再興の資金がないことを訴えた。
『日本がやるならアメリカの資本家が4000万~5000万円を金利5%で前貸しする。ただしレール機関車車両をアメリカから購入する条件で。この件にはルーズベルトも賛意を示している?』と説いた。このモルガン商会の巻き返しにより、ハリマン+シフの夢は実現しなかった。
6◆その後満州の利権はどうなったか
こうした背景があってルーズベルトのあとを襲ったタフト政権が、期待した満州の門戸開放は実現されなかった。タフトが大統領に就任するや対日政策は反日へ変わった。タフトはハリマンの娘婿ウィラード・D・ストレイトを東アジア部長に任命した。彼は満州におけるアメリカ製品の市場拡大には鉄道建設資源開発の大規模投資が必要と主張した。一方敗戦によりロシアは日本と協商関係になった。
そのなかで1910年アメリカは清国に5000万ドルの借款を与え、英独仏と4カ国借款団を組織し、強力なドル外交で日本に対抗した。このまま日米関係は悪化し、日米の太平洋における覇権争いに繋がってゆく。やがてこの流れは太平洋戦争まで変わらず繋がってゆく。
7◆国家は戦力と戦費なしには軍事的勝利は得られない。そして金貸しは金を貸せる状況を作り出すことができるなら何でもやる。日本が戦争に勝った最大の要因は、金融資本家たち思惑が日本支援に傾いたおかげともいえます。まさに国家の戦略は、金融資本家の意向に左右されているのだと思います。
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コメント4件
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taku | 2008.08.02 15:15
イギリスでは学生でも普通にFXやってたりするらしいです。
日本だと博打扱いで、外貨を買おうとするととんでもない高い手数料を払って外為銀行で両替するのが普通でした。