2013年02月06日

天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ3 ~高句麗に備えて亡流百済人と手を組んだ葛城~

●前回は、中国の秦の支配を逃れるために徐福一派が日本に脱出したこと徐福が伊豆で葛城に名前を変えて、日本全国にネットワークを作り上げたことを提起しました。

2230年前、秦の圧迫から逃れて3000人30隻の船団で日本に脱出し、日本各地に分住した楚人・徐福の一族が葛城であり、伊豆を拠点に尾張、伊勢、吉備、出雲、新潟を結ぶネットワークを構築。伽耶にも、いくつかの小国を領有。本質は弥生人であるが、中国を恐れ、表に立つのを避けて、裏のネットワーク作り=交易に注力した。
そして、朝鮮半島で高句麗が南侵し始めた320年頃、葛城にとって最大の脅威が高句麗となり、それに対抗するために、300年頃大和政権を建国した。

では今回は、朝鮮と大和政権の成立の真相を探っていきたいと思います。

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(年表 拡大画像は→コチラ
●纒向政権をつくった主勢力は東国の葛城

紀元100~660年は、高句麗の南下圧力を受けつつ三韓が睨み合い、小競り合いを繰り返していた時代である。
紀元50年、高句麗の建国以来、その南下圧力を葛城は警戒してきたが、313年、高句麗の進撃で楽浪郡が崩壊した頃から、弱小で南岸に位置する伽耶は強く日本への進出or脱出を志向し、かなり早く(200~300年頃)から、北九州に分国を建て拡大→東進の機会を伺っていたと考えられる。そして、隣接する馬韓、辰韓の力が増すにつれ、脱出志向がさらに強まってゆく。
韓半島の情勢を把握していた葛城は310年頃から葛城・纒向を本拠地とする大和政権作りに着手し、320年頃には、伊豆、紀伊、丹波、吉備、出雲etc各地の弥生勢力を糾合した緩やかな連合政権を、葛城の東側にある纒向に樹立した。これが纒向政権である。箸墓を含む5つの古墳群があり、中でも前方後円墳の発祥の地である。遺物は全国から集まっているが、伊勢と尾張が5割を占め、次いで出雲・北陸、次に吉備の物が多い。このことから纒向政権をつくった主勢力は東国の葛城であると考えられる。

 
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〔大和の中心だった纒向遺跡で出土する土器の由来地、日本中のネットワークが結集している〕
※出土土器は、大和以外では尾張東海地方過半を占める。
(図版はリンクよりお借りしました。楕円は土器の出土範囲です。出土数ではありません)
 
 
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●葛城+伽耶から崇神=第一期大和政権

次いで、350年頃、葛城ネットワークが、伽耶の崇神勢力を招いて崇神王朝を建てる(葛城+伽耶から崇神=第一期大和政権)。
伽耶は2480年前の呉流民を扶余族が支配した地域で、数十の小国に分かれる。統一国家を作れなかったが、最大の鉄の産地であり、葛城は伽耶にも拠点を確保していた。350年前後、百済、新羅が相次いで建国されるや、葛城は大和政権樹立を決意。一族(傍流)の伽耶小国の王を、海路伊勢から大和へ招き入れて大和政権を樹立した。これが「倭王旨」(ミマキイリヒコ)=初代天皇崇神(箸墓古墳の主)である。もちろん、実権は裏に回った葛城が握っている。

●葛城+百済から応神=第二期大和政権

この大和政権は中国南朝(宋)に10回朝貢し、その力を背景に繁栄したが、次いで480年頃、葛城ネットワークが、百済から応神勢力を招いて河内政権に衣替えする。
これが第二期大和政権(葛城+百済から武=応神)である。
当時の朝鮮半島の情勢は、391年~404年、高句麗の広開土王に敗れた百済が、北九州に分国を作るとともに、大和に支援を要請し、次いで475年、宋との仲介役の北百済が崩壊し、478年宋も滅亡した。大和政権も衰退に向かう。
391年~400年代の高句麗の好太王、長寿王の快進撃(南下)と475年に北百済が崩壊し、大量の百済人が北九州に進入してきたのを見て、葛城は百済と手を組んで高句麗に備えることを決意。480年頃、北九州の百済勢力を河内に招き入れると共に百済の王族を大王(応神)として招き入れ第二王朝を作った。それが「倭王武」(昆支ホムタワケ)=応神である。これが、葛城+百済系の河内王朝である。
そして、河内に威嚇のための巨大古墳を百済人たちに築造させた(これは、百済人たちの仕事=役割をつくるという意味もあったに違いない)。

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(葛城が百済人に築造させた仁徳天皇陵と百舌島古墳群)
 
 
●応神から継体-大友体制を経て葛城一族の蘇我が実権を握る

応神の後、九州の磐井が新羅と結び強力になった。それに対抗するために大伴・物部・蘇我etc大和は応神の血を引く息長氏と伽耶の血を引く振媛の子=継体を擁立した。継体は越の人で520年頃大和に入り、2年後、磐井を討つ。
葛城が擁立されたのは、大和政権をまとめ上げる実力を持つ人物が継体だったからであろう。越から来たことから考えて、継体は葛城一族だと考えられるが、これを呼び込んだのが、これまた葛城一族である大伴である。
ところが磐井が亡ぶと、大伴が連れてきた継体は、物部・蘇我にとって邪魔な存在となり、抹殺して、伽耶系の欽明を立て、政権を奪取。葛城は大伴を降格して新たに蘇我氏を立てて統合を計る。
蘇我は百済の官職を持つ、伽耶の任那の王族であり、その後の継体から欽明へのクーデターを首謀したことからも、もともと葛城一族であった可能性が高い。葛城ネットワークは伽耶にも拠点を確保しており、そこに派遣されていたのが蘇我であろう。その後100年近く蘇我が実権を握る。

●葛城の誤算(百済人が増えすぎて共認統合困難に)

しかし、葛城にとって大きな誤算があった。
475年、高句麗による北百済の崩壊以降、百済人が次々と移住し、しだいに百済系の勢力が大きくなってゆく。とりわけ500~600年代には、532年金官加羅滅亡、562年の任那滅亡、660年百済滅亡に伴って伽耶人・百済人が大量に流入した。中でも百済人が増えすぎて共認統合が困難になってゆき、葛城+亡命百済人体制が混乱に陥ってゆく。
600年代には、646年中大兄(後の天智)と中臣鎌足(後の藤原)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変と大化の改新→663年白村江出兵を経て→672年の天武が政権を簒奪した壬申の乱といった一連の政権交代劇が連続しているが、このクーデターも百済人が増えすぎたことによる体制混乱の顕れである。

この体制混乱に対して、葛城はどうしたのか?
それは次回、扱いたいと思います。
お楽しみに。

List    投稿者 i-ayaka | 2013-02-06 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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