2013年09月26日

裏天皇の正体2~日本の支配構造は倭人勢力VS百済勢力+キャスティングボードを握る秦氏?

前稿「倭人(弥生人)の葛城ネットワークと秦人(韓人)の秦氏ネットワーク」では、
大和朝廷成立前には、2つの勢力があったことを明らかにした。
【1】倭人(弥生人)の葛城勢力
呉越楚の滅亡によって亡流してきたのが倭人であり、倭人と縄文人との混血が弥生人。
その中心となったのが、秦始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福一派である。彼らは葛城と改称し伊豆を本拠として全国的なネットワークを築く。
【2】秦人(韓人)を秦氏勢力
同じく秦始皇帝の支配から逃れて朝鮮半島に脱出した、中央アジア発の秦人。彼らは伽耶で交易を業としていたが、ツングース系の扶余族(→後の高句麗・百済)の南下を恐れて、日本列島に脱出を始める。大分の宇佐に拠点を置いた彼らは、弥生人と混血し、宇佐を拠点に秦氏ネットワークを築く。
葛城と秦氏の二大ネットワークが、並存していた。これが大和朝廷成立前夜の政治状況である。
そこに、朝鮮半島からツングース系の扶余族が逃げ延びてきて、大和朝廷が成立する。

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「金融ワンワールド 地球経済の管理者たち」(落合莞爾 著 成甲書房刊)の、第4章・第5章を要約した。

●こうして豊後地方に勢力を蓄えた秦氏は、護衛のための軍事勢力を朝鮮半島から呼んできた。それが辰王ミマキイリヒコ・イニエ(崇神天皇)である。崇神は他の騎馬民族に追われて日本に渡来した可能性もある。
秦氏に誘われて渡来した崇神は、渡来秦氏の本拠たる豊国(福岡・大分)に駐留。この地には秦氏の日本貿易センターがあり、朝鮮半島からの流民や滞在者が多数居住していた。この秦氏の拠点が、後年608年、隋の使節として来日した斐世清が報告書に「秦王国」と書いたものである。
●ホムダワケ(応神)は崇神の直系子孫である。
応神天皇の別名を「八幡」と呼ぶのは、出自が満州であることを示す。「八」は北方騎馬民族の聖数で、「八幡」は満州騎馬族を意味する。
応神は、アマベや物部らを海辺の僻地や山中に追い払う。応神はヤマトの大王位に就き、豊国秦君は財務と産業政策を掌握する。しかし、各地の海人たちも直ちには降伏せず、全国各地で一斉に反乱を始める。『日本書紀』によれば、応神は安曇氏に海人の反乱を平定させ、安曇氏を海人の宰(首長)とする。この時に放逐された海部氏は、体面もあり尾張氏に改名した。
応神と豊国秦氏は、職能民を管理するための社会機構を作るが、高句麗人・新羅人・任那人・百済人が盛んに来朝する。応神は、韓人に灌漑池を作らせて農業を振興する。この韓人とは、秦氏が招聘した任那人ではないか。
応神14年には、秦始皇帝の後裔を称する弓月君(融通王)が、百済120県の人民を率いて帰化する。弓月君は秦氏グループ本社の秦韓の会長であり、応神がヤマトの大王に就いたのを機に、豊国(福岡・大分)へ本社移転したのである。
天孫族(崇神)の渡来と同期して古墳時代が始まり、応神の治世を契機に巨大古墳が築造される。
秦氏は国家財政を掌握し、養蚕・製糸・紡績の技術を持ち込み、産業振興に注力する。
秦氏の一部は山城国へ移住して、嵯峨や松尾などの桂川流域を支配した。
6世紀の秦君河勝は蘇我氏と密接になり、仏教振興に努め、京の太秦に広隆寺を創建する。
秦氏の分派は丹波に入り、先住の海部氏と混住し通婚する。既に物部氏と氏族統合しつつあった海部氏は、今度は秦氏化が進む(秦氏が海部氏を半ば吸収する)。その結果、丹波は養蚕や服飾の中心地となる。
さらに秦氏は山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携して、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てる。
こうして、応神朝廷と秦氏は連携して勢力を拡大するが、海辺山間に追いやられた先住海人衆は勢力の回復を期す。その代表が海部氏であるが、物部氏本流は海部氏と異なり、旗幟を鮮明にせずに応神=秦君の新政権に近づき、神道を奉ずる有力構造として大和朝廷に朝参を続ける。

崇神が朝鮮半島から招き入れられた。その前提となる、当時の朝鮮半島情勢は次の通りである。
312年高句麗が楽浪郡を占拠した。続いて、350年前後、同じく高句麗の南下に対抗して百済、新羅が相次いで建国。
宇佐の秦氏は、高句麗の南下に危機感を懐き、扶余族(高句麗・百済)に圧迫されていた伽耶の崇神勢力を防衛部隊として宇佐に招き入れた。
一方、葛城ネットワークも高句麗に対する警戒を強め、大和政権の樹立を決意。そこで、拠点をネットワークの中心である大和に移し、320年前後、緩やかな大和連合を形成した。
『金融ワンワールド』落合氏は、崇神は宇佐止まりで大和には入らなかったと考えているようだが、奈良県天理市の行燈山古墳が崇神の陵墓であるとする定説が事実ならば、崇神は大和に入ったことになり、秦氏が宇佐に招き入れた崇神を、さらに葛城が大和に招きいれたことになる。
高句麗の南下に備えて、倭人の大和連合と韓人の秦氏ネットワークは協調したのではないだろうか。
次に百済勢力が日本に亡流してくる。
391年~400年代の高句麗の好太王、長寿王の快進撃(南下)と475年に北百済が崩壊し、大量の百済人が北九州に進入してきた。これを受け入れたのも秦氏らしい。
さらに480年頃、百済の王族を大王(応神)として宇佐に招き入れ、祀り上げた。これが八幡=応神を祭神とする宇佐八幡宮である。
『金融ワンワールド』では応神は崇神の子孫であるとされているが、応神が百済からの亡流であることは間違いないので、伽耶発の崇神とは別である。
日本にきた百済(応神)は、九州の拠点宇佐から東征し、大和ののど元にある河内に拠点を構え、畿内を制圧したと『金融ワンワールド』ではされている。そして、倭人勢力(葛城・物部・海部)の一部は応神によって僻地に追われたとされている。
しかし、当時の日本列島の圧倒的大多数は縄文人+倭人である。
百済から来た応神勢力にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていった。世界の常識では当たり前の、力の原理にモノを言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのである。
従って、百済から秦に招き入れられた応神勢力も旧政権(崇神+秦+葛城)を征圧したわけではなく、招き入れられた可能性が高い。それは南侵する高句麗に備えるためであるが、ここで応神と手を組むかどうかを巡って、倭人勢力(葛城)が割れた可能性もある。
一方で秦氏は、倭人勢力である海部氏や葛城氏(物部氏)と通婚し一体化してゆく。
『縄文と古代文明を探求しよう!』「大和政権の源流と葛城ネットワーク~母系万世一系の葛城ネットワーク」では葛城ネットワークは母系による万世一系システムであったと述べられているが、秦氏も葛城ネットワークと通婚によって一体化していったのであろう。
応神政権(河内王朝)が樹立されると、高句麗の南侵圧力を受けた秦氏の朝鮮本社も日本に移住を始める。これが弓月君や阿知使臣が137県の百姓を率いて、日本に移住したという件である。
その後、応神と手を組んだ秦氏は、八幡神社や稲荷神社を全国に展開する。

●応神+秦君の王朝は第24代武烈天皇の代に危機に瀕し、勃興する新勢力に交代する。
越前を統治していた継体が第25代天皇を継ぐ。継体を支援したのは大伴氏だが、大伴氏はタチバナ氏の護衛部隊であったことから考えて、背後勢力は北陸の海人衆(タチバナ氏)と思われる。
タチバナ氏はアマべ・モノノベの渡来より遥かに古く日本列島に渡ってきた海人族で、震源はシュメルのウル都市文明か、あるいは、シュメルの先住ウバイド族かもしれない。その後、朝鮮半島を追われて日本列島に来襲した応神によって、海伝いに僻地に追われた
その後、継体崩御から4代後の欽明の即位に至るまで、朝鮮半島情勢に起因する全国的な内乱が起きたようで、欽明期を契機に百済的要素が皇統に浸透した。それが天智朝まで伝わる。一方、アマべの海人勢力は凡海(おおあま)氏が養育した天武に期待をかけた。
百済救援のために朝鮮半島に出兵した天智は、百済の祖先たる扶余族との関係が窺われる。百済は扶余族の一派として朝鮮半島を南下するが、欽明から天智までの皇統は百済系要素が濃くなった。
天智の崩御後に、尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら海人勢力が大海人皇子を促して壬申の乱を起こした。
大海人皇子の背後勢力には、美濃・尾張と丹波を地盤にしていた尾張氏と、近江・伊勢を地盤にしていた伊勢海人衆がいた。尾張氏は海部氏と同体である。
壬申の乱は、海人族が大海人皇子を奉じて、欽明期から百済色の濃くなった王朝を一新して、海人王朝を樹立しようとした戦いだったのである。
継体以来の海人系皇統を復元した天武は、天智系皇統を統合し、挙国一致の天武王朝を樹立した。

紀伊半島内陸部の吉野は、後に南朝の支持勢力となるが、当時から海人衆の勢力圏で、だからこそ天智に襲われる危険を感じた大海人皇子は、吉野に隠棲を装った。その後の南北朝も、総じて北朝は天孫系、南朝が海人系である。
天武は『古事記』を編纂させて国家神道を立てるが、教義の根本を天孫史観に置いたのは、身内同様or実質身内の海部氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を根底に敷きながら、天孫族との大連立は図ったからである。

●海人王朝を復元した天武以後、称徳天皇までが海人系皇統の時代であった。以後は、聖武天皇と県犬養広刀自との間に出来たタチバナ系の井上内親王の婿であることを手掛かりにして、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、百済色の強い天智系が復活する。
その後、桓武王朝から皇統に百済色が復活して、海人勢力の後退が明らかになる。この間、藤原氏が陰謀の限りを尽くして橘氏を破滅させるが、藤原氏の氏姓を鑑識することはできていない。
藤原氏は騎馬系の臭いがせず、商業系の気配もなさそう。政治性に富むところから、継体王朝のどこかの時期に渡来してきた族種であることは確かで、シュメル系の一分派という説もある。

日本の支配階級には、倭人系の葛城勢力と百済勢力がいて、両者が主導権争いしているという捉え方である。
応神以降は百済勢力、継体以降は倭人(葛城)勢力、欽明から天智までは百済勢力が主導権を握り、壬申の乱で倭人(葛城)勢力が主導権を握る。そこで倭人勢力が押し立てたのが天武であり、天孫族の万世一系神話を主軸とした『古事記』の編纂によって、百済勢力をも統合した大連立政権を樹立する。
しかし、再び桓武朝では百済勢力が主導権を奪回する。
そして、桓武朝を平安京に招き入れたのが秦氏である。
秦氏はそれにとどまらず、九州においても勢力を拡大してゆく。

●六尺褌を締め込む姿から「フンドシ族」をも呼ばれる隼人はポリネシア=インドネシア系で、その分派は東京湾近傍や小笠原父島にいるが、その本拠は大隈・薩摩で、古くから東南アジアの海洋を往来し、各地の同族と通交してきた。
当時、親朝廷であった大隈隼人は、大宝律令の施行に強く反抗する。朝廷は豊国から5000人に及ぶ秦人を隼人制圧を目的に隼人町に移住させた。
この朝廷の圧制に対して、大隈隼人は反乱を起こす。朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍とする征討軍を派遣し、援軍として豊前国の宇佐軍(秦人軍)が加わる。これは応神騎馬隊の伝統を受け継ぐ精鋭である。
豊国稲積から移住した秦人は、隼人町に定住して郷名を豊国郷・稲積郷と名付け、氏神を韓国宇豆峯神社とし、聖山を韓国岳と呼んだ。これは秦人が任那からの渡来民だったからであり、元来、この地は朝鮮半島とは何の関係もない。
移住してきた秦氏は、隼人が天孫族の首長ヒコホホデミとその配偶の安曇氏豊玉姫を祀っていた鹿児島神社の祭神を、宇佐から将来した八幡神(応神天皇)に換えた。これが隼人町の大隈正八幡宮である。

薩摩の島津家は、元々の姓は惟宗氏であり、その前は秦氏である。
明治維新の一方の立役者であった薩摩は、秦氏の勢力圏であった。
もう一方の立役者である長州は、百済か秦氏か?
日本の支配階級は3つの勢力から構成される。
【1】徐福⇒葛城をはじめとする倭人(江南人)勢力
【2】中央アジア→朝鮮半島経由で逃げ延びてきた秦氏勢力
【3】高句麗に追われて朝鮮半島から逃げ延びてきた百済勢力(扶余族)
【4】藤原は?

主要には、倭人勢力と百済勢力が主導権を争っているが、そのキャスティングボードを握っていたのが秦氏ではないだろうか。
以上の日本の支配階級の力関係を踏まえた上で、次回から本題である「裏天皇の正体」に迫ってゆきたい。

List    投稿者 staff | 2013-09-26 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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