暴走の源流=平安貴族12 神社・鉱山・交易を支配した日本の黒幕勢力秦氏
秦氏の拠点「宇佐八幡宮」
画像はこちらからお借りしました。
平安貴族たちは、かなり大量かつ広範囲に私貿易・密貿易を行っていた。
そして、その貿易による蓄財が、彼ら支配勢力の財として蓄積されてきたことは想像に難くない。
では、この交易を牛耳っていた勢力は?
その元締めとなったのは秦氏らしい。
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『高野山の魅力』「秦氏についての空想」
秦氏一族が 単純に ユダヤ人であったとか、あるいは キリスト教徒であったという説には疑問を感じます。
かなりの人数の一族が単一の人種や文化を持っていたなら何らかの記録が歴史に刻まれていたはずでしょう。
秦氏は 同一人種、同一宗教のグループではなく、グループ内に複数の人種、宗教を抱えた地域集団として日本に渡来してきたのではないでしょうか。
シルクロードのオアシス都市を拠点とする小さな王国が 何かに追われ安住の地を求めて移動してきた。
グループ内には様々な人種を含み宗教も多様、そして 持っている技術も多彩な人々の集団であった。 ユダヤの血を引く者も、キリスト教徒も含まれていたかもしれません。
朝鮮半島に達したとき新羅・加羅の人々が加わり一大集団として日本に渡来した。
最初は九州地方に拠点をかまえ泰王国をつくり、後に各地に分散、拠点を京都山城に移しました。
平安京造営の為の土地と資金は秦氏が提供したとの話があります。
その財力の源泉は 大陸との私貿易だったのでは?
日本で絹生産を普及させ、日本産の絹を中国経由で西方世界に流通させることにより莫大な富を蓄積した。
その交易はシルクロードで大きな影響力を持っていたソグド人のネットワークを利用していた。
しかし 血族的結束力の強くないグループだったため、しだいにネットワークは衰退し各地で日本人の中に埋没し、やがて 歴史の表舞台から姿を消していった。
これは もちろんあくまで管理人の空想です。
古代における日本と朝鮮半島および中国大陸との交流は質量共に現在の我々の常識をはるかに超えた規模だったはずです。
後の遣唐使の時代、その成功率のあまりの低さに大陸への渡航は特殊な冒険のようなイメージを持ってしまっていますが、古代の記録から見ても、人も文物もかなりの頻度で自由に往来しています。
朝鮮半島へは派兵までしている訳ですから 航海技術は実用レベルまで確立されていたと考えるのが当然でしょう。
秦氏が輸送船をもち、輸出入業務を行っていたという想像することもできるのではないでしょうか?
しかし、公式の記録に残せない理由があったのでしょう。
秦氏は天皇家のために交易を行っていたのではないか? そしてその蓄財は天皇のためのものであった。
秦氏は朝鮮半島から渡来時に 天皇から受けた恩を、いつまでも忘れず、影で献身的に仕え続けていたのではないでしょうか?
『高野山の魅力』「弘法大師と秦氏」
弘法大師が どこで何をしていたかの消息が不明の期間があります。
(1) 仏教を修行すると宣言してから 遣唐使の一人として登場するまで7年間
(2) 唐の長安に入り青竜寺の恵果を訪ねるまでの2ヶ月間
(3) 帰国し太宰府に着いてから京に入るまでの期間(3年?)
(1)については
司馬遼太郎氏は、「空海の風景」の中で 大安寺の僧、勤操の非公式な弟子として過ごしていたのではないか?としています。
当時の大安寺は朝廷直轄の官立大寺であり、現在の文部省と東京大学を合わせたようなものです。 僧は国家のエリート公務員でした。
勤操はその有力者ですから もし非公式な弟子であったとしても、それを告白する事は勤操に迷惑がかかる為に出来なかったと思われます。
また、大師が若い時代に虚空蔵菩薩求聞持法を修したことは知られていますが、この法を日本に伝えたのは大安寺の道慈律師でした。入唐留学の長安で善無畏三蔵から直接に教えを受けたと云われます。 この虚空蔵菩薩求聞持法を空海に授けた人物は、勤操だろうと言われてきました。(異説もあり)
この求聞持法は寺の秘法として弟子に伝授されるものですから、大師は勤操から教えを受けたと話すことは出来なかったのでしょう。
弘法大師は『御遺告』において、道慈を「わが祖師」と称し、勤操を「わが大師」と呼んでいます。
大師と勤操及び大安寺との深いつながりを推測させる事実です。
大安寺の歴史は聖徳太子の創建した熊凝道場に始まります。太子の遺言で天皇家により造営された百済大寺が、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城京に移って大安寺となりました。
829年には弘法大師はこの大安寺の別当に補任されています。
管理人は この大安寺は秦氏と深い関係が有ったのではないかと想像しています。
多くの入唐留学僧が大安寺から派遣され、また帰国後寺に戻っています。
日本に招かれた多くの外国僧も大安寺に入りました。 現代風に言うと国際仏教研究所のようなものでしょう。
海外交易を行う(と、管理人が想像している)秦氏が関わりをもっているのは当然と思われます。
もしかしたら遣唐使の予算の一部を負担していたと考えることは出来ないでしょうか?
また 弘法大師は勤操大徳の父は秦氏であったと書き残しています。
大師は勤操を通じて秦氏の援助を受けていたのではないでしょうか?
そうであれば大師の留学に関するいくつかの謎が解明できます。
(1)大師は私費留学生として唐に渡りました。そして密教を受け継いだ時に、20年間の留学費用をすべてつぎ込んで、おびただしい法具や絵画などを作成させ日本に持ち帰っています。 その資金は莫大なものだったと言われていますがその出所が不明でした。
(2)また、出発直前の遣唐使のメンバーに突然入ることが出来たのはなぜか?
(3)大師は唐に出発するまでに中国語を完全にマスターしていた。いつどのようにしてこれを修得したのか?
これらの疑問に対し、秦氏が大師の留学のスポンサーだったとしたら説明がつくのではないでしょうか?
また 冒頭に上げた 大師の消息不明の期間の(2)(3)について 何か秦氏に関わりのある事があったのではないかと思っているのですが、これについては想像の範囲を超えています。
弘法大師と秦氏はもっと深いつながりがあるのかもしれません?
空海の弟子で大安寺の僧、行教は860年、石清水八幡宮を勧請しました。 八幡宮の信仰は秦氏と深い関わりが有ると言われます。
京都伏見稲荷大社
画像はこちらからお借りしました。
日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族は渡来系の秦氏であると言われている。
竹内理三によれば秦氏は「殖産的氏族」と呼び、平野邦雄氏は「非貴族的・非官僚的体質を持った、著しく底辺の広大な在地的土豪氏族」であったと述べている。山尾幸久氏は「財力と労働力を提供して政治を動かしている隠然たる実力者」「黒幕的存在」と表現する。また加藤謙吉氏は「中央政界の一線で活躍する事はあまりなく、むしろ大和朝廷や律令国家の基部を支える役割を果たした氏族」であったとしている。
秦氏の本拠地は山背国(現在の京都府南部)だが、その分布は日本列島各地にわたる。彼らは農耕のみならずさまざまな産業の勃興に貢献し、殖産した。
北は上野国から南は豊前・筑後国にいたるまで。特に多かったのは遠江、伊勢など東海地方から越前・若狭など北陸地方。少ないところといえば関東以北や九州南部くらいであろうか。それ以外は極めて広範に分布する。
秦氏は5世紀後半から末頃には山背に本拠を置き、そこに古墳を築くようになる。通説ではこの時期に日本列島に渡来してきたように考えられている。
上記の「秦氏についての空想」によると、その前は九州豊前(大分)で秦王国を築いていたらしい。
秦王国の拠点である豊前宇佐神宮で祀られる八幡神は、「八幡大菩薩」とも呼ばれ、伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神である。またその一方では武士政権の最大の守護軍神でもある。
このように、秦氏は、八幡神社、稲荷神社、日吉神社、松尾大社、愛宕神社といった多くの神社を創建した神祇集団である。
現在も、八幡神社は全国に約二万四千という日本第二の分社を数える。ちなみに第一位は京都伏見稲荷大社を総社とする稲荷神社である。
こうして、秦氏は全国に神社ネットワークを形成した。つまり、観念支配(神社信仰)の中核にいた集団が秦氏であるが、それは神社信仰に止まらない。「弘法大師と秦氏」によると、空海のスポンサーになったのは秦氏であり、それが事実であれば、その支配力は仏教集団にも及んでいたということになる。
西欧の金貸しは、ルネサンス以来、数万人に1人の才能を発掘しては芸術家や学者や政治家として育て、また他方では諜報機関や大学や広宣機関(マスコミ)を作ってきた。
日本において、それと同じことをやってきたのが秦氏なのではないか?
また、秦氏は技術者集団として有名であるが、着目すべきは鉱山開発を牛耳っていたことである。つまり、金銀銅などの財や、鉄⇒武器製造を支配していたのが秦氏である。
それにどどまらず、絹貿易を中心として大陸との交易をさかんに、莫大な富を蓄積させてきた。
観念支配⇒神社ネットワーク、鉱山開発⇒金銀財や武器製造、さらには貿易。
これだけでも、秦氏の力の大きさが伺える。
これらが秦氏が黒幕として存在しえた力の基盤である。
日本の支配構造を考える上で、秦氏の果たした役割は無視できない。
その存在構造は、いずれ本格的に追求します。
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