天皇制国家の源流15 なぜ日本の歴史書(記紀)は事実とかけはなれた記述だらけなのか?
(画像はこちらからお借りしました。)
前回、『天皇制国家の源流14 大和朝廷の対中外交の変遷』
では、高句麗を最大の脅威としていた葛城勢力が、高句麗に対抗するためにどのように国家統合
を行ったか?について扱いました。
今回は「なぜ、日本の歴史書は事実からかけはなれた記述だらけなのか?」を考えていきます。国家統合と深い関わりがあるようです!
『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)第11章より引用させて頂きます。
■日本の新外交路線(白村江の戦後①)
白村江の戦い以降、新羅外交は引き続きほとんど唐に集中します。それに反し、倭は百済と事実上一体化したので唐の視線に大した関心がありません。白村江の戦いの直後は、唐・新羅の追撃を恐れますが、その心配がなくなると“唐の秩序”に積極的に関わっていく必要もありません。遣唐使もわずか3回ばかりで、文化導入の実利も得ています。百済と倭は半島と列島に生まれただけの違いで、種は同じであるのだから一緒にがんばろう、との意です。
中国皇帝に対立する天皇の称号も勝手に使っていました。唐が天子なら我らは天皇とばかり胸を張ったのです。唐が海を越え日本を攻撃することはできず、かえって贈り物などをもってなだめるのが関の山でした。結局、日本は東アジアの国際秩序に従わない特殊な国として残りました。
■異なりだす半島と列島(白村江の戦後②)
日本で家門神話を持つのは天皇家だけということになりました。孤絶した島国を最大限に活用して、日本は外国の耳目を意識せず万世一系、神国、天孫といった具合に神がかり的な歴史をつくったのです。 そもそもヤマト王朝は征服者が樹立したもので、権威主義になるのは宿命です。天皇家は実質的に百済系であり、辰王に繋がる現人神の思想がありました。海を渡った扶余系の神話は、いっそう権威がつき、元来のものより威圧的になったのです。
白村江の戦いに勝利した新羅は、引き続き高句麗と戦い、それを倒し、そのまま半島居座ろうとするかつての同盟国、唐軍をも敵にまわす統一戦争を続けます。当然、強力な政権が求められていました。しかし、新羅王朝は日本のように豪族たちの神話を丸取りした歴史編修をしませんでした。
新羅も日本と同じ律令制を実施しながらも、万世一系史観に裏打ちされた王権制度は作れませんでした。同じように強力な王権確立の目的を持ちますが、日本と新羅は“原型の違い”で王朝の制度は同じように見えても内容が異なります。そのうえ新羅は、大陸国家と接しており、独りよがりにはなりきれず、より世界性のある国家観を持たざるを得ません。さらに、新羅は辰王家のような現人神神話は持たず、百済より一歩遅れて王権を確立した、いわば歴史の浅い成り上がりの国とも言えます。
■無理やりつなげ直した『日本書紀』
白村江の戦いで敗れた悔しさが、日本が新羅より古く由緒ある国であることを大袈裟に表せしめたのでしょう。 『日本書紀』の初期の記事は、200年以上もずらして記録したものも少なくありません。
日韓の正史には、年代からして噛み合わない記録でいっぱいです。
とくに応神王朝、継体王朝の記録にミステリーが多いのですが、それは革命・クーデターの史実を無理に一系としてつなげたためです。
■不比等の力量が発揮された日本物語
4世紀後半、応神時代になってやっと人間の歴史のようになりますが、それでも応神は110年以上生存する(『日本書紀』)など、説話的な要素が多く含まれています。年代が確実視される天皇は、ようやく26代目の継体からです。
おそらく、『国記』は蘇我氏と百済系神話を中心にしたもので、欽明がプリンス・オブ・倭であることも明記していたはずです。当然それまでのの倭国の歴史は、辰王直系を名乗ったとみられます。そうでなければ、倭の五王が中国の皇帝に対し、半島諸国の支配権を認めてくれとはいえなかったはずです。その歴史を藤原氏の都合によって書き直したのが『記紀』です。歴史を書きはじめることは思想的に国づくりを開始することです。
日本の正史『記紀』は、天武天皇により発案され、それぞれ712年と720年にほとんど同じ史人たちにより藤原不比等の采配のもとに編集されました。 不比等が大化の改新の一等功臣鎌足の子でありながら、田辺史のところに里子に出されたというのは、史実の箔を付けるための作り話のようで、本当のところは自分に正しい歴史を修撰・指導する十分な見識のあることを周囲に示したかったのでしょう。不比等は史家としての権威をもって蘇我氏を糾弾し、日本神国史観を基に新しく天皇家と藤原家門の永遠の繁栄を謳ったのです。古代の史人は百済の阿直岐または、列島に「千文字」を伝えたという王仁の子孫でした。『記紀』編算の方向を定めた不比等は「史人」でもあり「政治家」でもあったようです。実際に不比等は史を名乗り、ならぶものなき人・不比等として、思想面での日本建国者とも言えます。
藤原不比等を思想的な建国者とみるのは、その執念がこれほどまでに日本人の思考を形づけているからです。彼は倭、大倭であった「やまと」を大和とし、実在しなかった聖徳太子に「和をもって貴しとなす、さからうことなかれ」と言わせました。それは日本が和白などとうるさく言う国ではないことの宣言でした。
藤原氏は第一期ヤマト王朝加耶系の遺臣の後裔です。不比等の父・鎌足には加耶への思い入れもあったようです。新羅は唐に一戦を決し、ヤマトに連合を求めたとき、加耶王家出身のキンユシン、金東厳を列島へ送りました。白村江で大失敗したヤマトはそれに応ずることはできません。しかし、鎌足は金東厳に託してキンユシンに軍船を一隻贈っています。同じ加耶出身であることをお互いに知っていたのだと思われます。
藤原鎌足は、応神・継体王朝の下では日の当たらない存在でした。もともと中臣であったのを誇り高き本貫の地藤原を名乗り、加耶系が政治の表舞台に出たのです。
●日本の歴史書は、なぜこれほど事実からかけ離れた記述になるのか?
私権闘争の行き着く先は殺し合いであり、従って王朝の交代は、一般に武力闘争によって実現される。それは西洋でも東洋でも同じである。従って、新王朝は旧王朝を破って権力を握ったことを高らかに宣告する。従って、彼らは過去の王朝を抹殺してしまうようなことはしない。その必要がない。
彼らは旧王朝を悪者視させ、新王朝を美化するために、脚色された歴史書を作るが、しかし否定のしようのない基本的な事実の大半を抹殺してしまうようなことはせず、脚色部分を除けば大筋は事実に立脚している。
その点、事実の大半を抹殺した上で、架空の年代に架空の人物を登場させて、その架空物語の中に断片的な事実を嵌め込んだ日本書紀は、世界でも例のない架空の歴史小説であり、おそらく歴史小説を正規の歴史書としているのは日本だけだろう。
・和を旨とする縄文体質の日本では、政権は共認原理に基づく連合政権という形で統合される。従って、皆が共認できる統合軸が必要になる。その統合軸と成ったのが、(同じく連合政権であった)扶余族が持ち込んだ現人神信仰である。降臨した現人神は、他の姓に変えることは出来ないので、万世一系でなければならない。
そこで、葛城-不比等は、この現人神→万世一系の信仰に立脚して、天武を皇統に繋ぐために架空の系図を作成した。
たしかに、神話時代の系図ならどのようにでも作れるし、それに異を唱える側も確たる根拠を示し得ない。しかし、直近の系図については、嘘は明白である。問題は新政権の重臣たちが嘘と知りながら、表立って異を唱えなかった所にある。
・新政権の重臣たちが表立って異を唱えなかったのは、統合軸として万世一系の信仰が必要であり、嘘でも万世一系としておいた方が上手くいくと判断していたからである。つまり、共認統合のための方便である。
☆つまり、共認統合上、事実よりも万世一系信仰の方が上回っていた!
たしかに、重要なのは統合であり、体制の確立であるとすれば、系図の嘘などは呑み込むべき小さな問題である。
しかし、それは万世一系信仰に頼るしかなかった時代の話であり、武力で統合された鎌倉や江戸時代には天皇の存在はないがしろにされていた。とは云え、武力統合の時代にあっても、旧王朝=天皇家を滅さずに存続させ、国の統合軸としての天皇の権威を利用していたが、それはその時代において、なお「万世一系の統合者」信仰が根強く残存していた証である。
但し、武力統合の時代には、すでに「万世一系」信仰は絶対性を失った建前上の名分≒建前規範と化しており、現実は武力に基づく身分序列によって統合されていた。
明治政府も、GHQも、建前規範(建前上の名分)としての天皇を利用した。それは、大臣や官僚etc国家の統合者たちが、自分たちの身分を絶対化するための根拠として天皇を必要としたからである。
明治政府をつくった支配者たちが、学校教育等で天皇制の国民洗脳を図ったのは、列強に取り囲まれた日本にとって、国家統合が必要であり、そのために天皇制で以て統合を図った。その結果が米に原爆を落とされて焦土化した挙句の敗戦であるが、支配階級はそのことを全く反省していないようである。
次回より、「天皇国家の源流」のまとめに入ります!お楽しみしていてください♪
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