2019年06月13日

日本人の縄文体質、受入体質。それがこれまで支配者層に利用されてきた。

私は子供の頃、学校で「古代に中国や朝鮮半島から渡来人達が自発的に日本列島に渡ってきて、進んだ文化を伝えた。」教わってきました。
稲作、文字、青銅器などなど・・・
「渡来人えらい!すごい!」と、当時は無邪気に思ったものです。

しかし今日、こうした渡来人は決して善意や使命感で日本に来たわけではなく、大陸の戦乱に敗けて逃げきた難民である事、土着の縄文人を支配し、朝鮮民族による支配は今なお続いている事、は公然の事実となっています。
渡来人は、決して「いいひと達」ではなかった訳です。

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一方、それでは縄文人たちは侵略者に屈し武力による支配を受けたのか、というと、それはそれで違うようです。そのような遺跡も伝承も見つかっていません。
そしてこれが、大陸や欧州における武力征服と皆殺しの歴史と全く違う点です。

 実態は、寛容で共同体性の強い縄文人は、むしろ敗者たる渡来人を「受け入れた」。
不安に苛まれている渡来人たちも、その縄文精神に乗っかった、といったところではないでしょうか。

以下、
より歴史的、人類的な視点からもう少し詳しい内容として、ハフポストさんの記事を紹介します リンク

 【DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた】
■渡来人を受け入れた先住民
 では日本人は、いつ、どこからやってきたのだろう。『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉誠出版)の中で崎谷満は、次のように推察する。

  バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。
(中略)
 弥生時代の始まりとともに、渡来人の血が少しずつ染みるように先住民の中に受け入れられ、先住民は率先して稲作を選択し、人口爆発をおこした。彼らの子孫は、日本の風土の中で育まれ、縄文時代から続く列島人の風習と伝統を捨てなかった。もちろん、その後も大陸や朝鮮半島の動乱から逃れて人々が日本にやってきたが、彼らが日本列島を征服し、支配したわけではない。

 ■縄文の力

 なぜわれわれは、縄文人を軽視してきたのだろう。

  教科書そのものが、かつての常識そのままに、「野蛮だから駆逐された縄文人」という歴史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。教科書には、「背の高い弥生人、小さな縄文人」の骨格写真が並べられていた。あれを見れば、縄文人と弥生人は入れ替わったと信じてしまう。
 その一方で、遺跡の現場で泥にまみれ直接発掘に携わっていた考古学者の多くは、「本当に日本列島は渡来人に席巻されたのだろうか」と、疑問を抱き続けてきたのだ。なぜならば、たとえば、弥生早期の外来系の土器は、玄界灘の沿岸地帯(北部九州)の大きな遺跡から発見されるだけで、他の地域からはほとんど見つかっていない。これは、考古学者の常識だった。
(中略)
 われわれの御先祖様たちは「敗れ、渡り来たった者たち」を寛容に受け入れ共存し、豊かな感性を磨き、当時の中国や朝鮮半島の先進の文物を貪欲に学び取り、世界に冠たる文化を花開かせてきたのだ。その歴史を、われわれはもっと誇りにしてよいと思う。

以上、引用終わり。

 

古代より培われてきた日本人の縄文体質、受入体質。これは誇るべき文化です。

 問題は、時代が下り渡来人の支配構造が確立するに及んで、この日本人特有の「受入体質」が支配者層によっていい様に利用され、騙しと洗脳によってそこに疑問を抱かなくなってしまった点ではないでしょうか。
そしてこれは現代の支配構造の状況にも通じる物があります。

 それでも封建時代まではこの外来支配も、民族と直結した武士階級による力の支配と拮抗していました。
しかし明治以降の天皇支配、田布施支配、金貸支配は、この縄文体質を逆手にとって、易々と日本人を手懐け、思考停止にしてしまったように感じます。

List    投稿者 nihon | 2019-06-13 | Posted in 16.国家の支配構造No Comments » 

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