2010年09月19日

特権階級の世界と大衆の世界を繋いでいたもの(4) 豊かさ期待に代わる新しい期待感「参画期待」

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「武力支配時代の秩序期待」「近代~’70年までの豊かさ期待」で述べてきた論点は、次の通りである。
【1】武力支配の時代は秩序化期待、近代では豊かさ期待が全社会的に充満しており、そこでは国民の為に働くのが為政者の条件であるという共認が働いており、特権階級は中立性・公平性を投げ捨てて暴走することはなかった。つまり、全社会的な期待感こそが、支配階級・特権階級の世界と大衆共認の世界の紐帯であった。
【2】ところが、’70年頃豊かさの実現によって、社会全体から沸き起こる豊かさ期待は衰弱し、とりわけ’90年バブル崩壊以降は、物的な豊かさという軸上では誰もが暗い見通ししか持てなくなり、豊かさ期待は喪失した。この「期待感の不在」こそ、現在、どれほど特権階級が暴走を続けても、あるいは無能さをさらけ出しても、大衆的な運動がどこからも起こってこない根本的な原因である。
【3】そして、全社会的な期待感こそ、その時代を動かす中心軸=時代のパラダイムであり、その期待が無いということは、中心軸を喪失しているということと同義であり、社会活力を衰弱する一方で統合されることはない。社会を再生するためには、豊かさ期待に代わる新しい期待像を作り出す必要がある。
では、豊かさ期待に代わる新しい期待感とは何か?
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そのヒントとして『るいネット』「活力源は、脱集団の『みんな期待』に応えること」から引用する。

‘70年、貧困が消滅して以降、私権への収束力は衰弱し続け、至る所で活力の衰弱が進行して、社会は全面閉塞状態に陥ってしまった。今や、国家も企業も家庭も、全てが迷走状態にある。
これは、おそらく人類の適応不全、つまり、個人や集団や国家という枠を遥かに超えた、種としての『みんな』不全である。そうである以上、人々の意識が、個人や集団を超えた『みんなの期待』に収束してゆくのは必然である。実際、若者のマスコミ志向や芸能人志向、あるいはメル友300人等の現象が象徴しているように、人々の意識は集団を超えた人(誰でも)収束や、『みんな期待』に応えるやりがい志向に向かっている。
もはや私権集団は活力を失って閉塞を深めてゆくばかりであり、人々はそんな集団の中では満たされず、新たな可能性を求めて集団の外へ向かい始めた。例えば、離婚や未婚の増大も、フリーターや引き篭もりの増大も、不正に対する内部告発の急増も、全ては私権集団からの離脱現象である。
おそらく次代では(むしろ現在すでに)、『みんな不全』⇒『みんな期待』に応えることが、一番の活力源になる。
では、現在のみんな不全⇒みんな期待の中身は、何か?
それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。
しかし、出口が見えないということは、これまで一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミ等、発信階級たちの旧観念が全く役に立たない(現に、彼らは未だに何の答えも出せないでいる)ということであり、旧観念を全否定した全く新しい認識が必要だということである。それは、これまで彼ら発信階級が撒き散らす観念をただ受信するだけであった『みんな』の協働によってしか生み出せない。
とすれば、答えを求めて誰もが集まり語り合う場(認識サロンや認識サイト)を作ってゆくことこそ、皆の期待に応える最も充足できる活動であり、それこそが集団(の成員)や社会の活力を再生してゆく、真の「社会貢献」の道ではないかと考えている。

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ここで提示されている「みんな期待」こそ、新しい社会的期待に他ならない。
そして、それは「(特権階級に代わって)自分達で国(社会)を作っていけるという期待感」、一言で云えば「みんなが参加できる」という参画期待ではないだろうか。
’70年頃豊かさが実現されると同時に大衆運動(労働運動や平和運動・学生運動)は終焉した。一見、大衆の社会的関心がなくなったかのように見えるが、決してそうではない。大衆運動が終焉したのは、豊かさの実現によって「否定と要求」が無意味化した結果にすぎない。一方で、潜在意識のレベルでは大衆意識は’70年以降の40年間で大転換を遂げてきた。それが充足志向⇒実現志向⇒共認収束の潮流である。『るいネット』「潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向」
この潮流は、学生の就職意識にも顕れており、安定を求める一方で、「社会貢献」など社会的な役割期待に応えられるかが企業の選択基準にもなりつつある。さらに近年では、共同体的な企業も登場している。このように大衆の社会意識は年々醸成されつつある。
しかし、特権階級たちが社会統合を独占し暴走を続ける限り、生産集団たる企業に社会的役割を求めても本当の答えにはならず、本当の充足は得られない。それは充足志向⇒実現志向の実現態の一つである共同体的企業に所属しても同様である。だとすれば、本当に充足できる社会を実現するには、特権階級に代わって自分たちの社会=国家を自分たちの手でつくるしかない。したがって、今必要なのは「自分たちの手で社会=国家をつくる期待」を顕在化させることである。
その実現基盤はどこにあるのか?
より深層にある根底的な意識である適応本能⇒秩序本能がそれである。本能機能も共認・観念機能もそれ自体が一つの秩序体系であり、生命は秩序化のベクトルに貫かれて存在している。秩序の崩壊とは秩序化という生命原理の崩壊であり、生命にとっては全てに先立って解決しなければならない最優先課題である。
従って、特権階級の暴走やドル・米国債暴落を引き金とした秩序崩壊の予感は、万人の深層意識にある秩序本能を直撃し、新たな秩序構築のために「どうする?」という当事者意識(社会的役割欠乏)が本能的に強まってゆく
「本能的な秩序収束⇒課題収束⇒草の根共認⇒ネット収束」
この秩序本能を原動力とした強力な社会的役割欠乏が、「自分たちで社会(国家)を作りたい」という参画期待が顕在化する基盤である。
この新たな期待感(参画期待)には、武力支配時代の秩序化期待や近代の豊かさ期待との大きな違いがある。武力支配時代も近代も社会の統合は支配層が独占しており、大衆は専ら支配層に期待する一方だったが、この新たな期待感(参画期待)に沿っていくためには、我々大衆自らが社会に主体的に参加していく必要がある。平たく言えば、社会を対象化するといった次元を超えて、官僚に代わって我々庶民が行政に参画してゆくということである(官僚に社会統合を任せておいて、文句だけ言うのはフランス革命と同じで何も変わらない)。そして、このような主体的な行動の中からしか、本質的な活力は湧いてこない。
時代は私権原理から共認原理へと大きく転換し、可能性は大きく開かれている。
「自分達で社会(国家)を作っていけるという期待感」が生み出す新しい世界に大衆自らが身を投じることさえできれば、社会は活力を取り戻し再び統合されてゆくであろう。
そして、その兆しは、以下の記事でで述べられたように、既に最先端部分で顕在化しつつあると思う。
「庶民による社会統合気運の高まり その最先端の潮流を探る1」
「庶民による社会統合気運の高まり その最先端の潮流を探る10」 
「もう、プロには期待できない~大衆による直接社会統合の可能性 10 平成版 参勤交代の提言~」
るいネット
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List    投稿者 staff | 2010-09-19 | Posted in 04.日本の政治構造2 Comments » 

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コメント2件

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