2012年12月03日

軍事力と財力、資源・物流力、外交力を有する、日本列島最強の集団だった葛城

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前稿「葛城の正体 三国志の孫呉or徐福⇒伊豆⇒関東・中部東海~近畿~出雲を支配」から、次のような仮説が成り立ちます。
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【1】中国春秋戦国時代、呉の滅亡(紀元前473年)、越の滅亡(紀元前334年)に伴い、呉越人が朝鮮半島に流れ着いてつくったのが倭である(一部は日本列島に流れ着き弥生社会を形成)。
【2】紀元前220年秦の始皇帝の時代に呉の徐福が脱出し、次いで紀元280年には三国志の時代の呉が滅亡し、脱出部族が黒潮に乗って伊豆に辿りついた。
この徐福、あるいは三国志の呉からの脱出勢力が葛城の起源である。
【3】葛城の財力基盤は、伊豆の温暖な気候による農業生産力と伊豆の金山である。
【4】それを基盤として葛城は伊豆から西征し、関東~中部・東海~近畿~出雲までを支配する。
(日本の支配勢力は西から東征するという固定観念に捉われない方がいい)
伊豆(イズ)と出雲(イズモ)という音、あるいは出雲の賀茂という地名は、それを示している。そういう意味で「大国主」であった。
但し、出雲には秦に追われたモンゴル系新羅族が流れ着いて、徐福or三国志の呉族と混入した。それが葛城勢力である。
【5】さらに、中国春秋戦国時代に滅亡した呉越の末裔である朝鮮半島の加耶勢力が扶余族(高句麗・百済)に追われて、日本列島に流れ着く。これが第一期大和朝廷(神武=崇神)であるが、これに対して、葛城=物部=出雲勢力は、表向きは服属の体裁をとりながら(加耶勢力を奉り)、実権は握り続けた。
【6】葛城を秦代の徐福or三国志の呉の脱出勢力という説は整合性が高い。とりわけ呉は当時の最先端の武装(水軍力)を持っており、戦国時代末期や三国志の時代を戦ってきたわけだから外交力も一級であったはずである。紀伊・宗像の水軍勢力もこの流れだろう。
その最先端軍備と外交力で伊豆から関東~中部東海~近畿~出雲(山陽・山陰)を支配するのは簡単である。
そして、伊豆の金だけでなく、出雲の鉄も押えた葛城は、軍事力と財力、資源・物流力、外交力を有する、日本列島最強の集団となったのではないだろうか。
【7】それだけの力を持つ葛城が、何故、朝鮮半島からきた加耶(崇神)や百済(応神)程度の勢力を駆逐せずに、表向き服属したのか?
呉から来た葛城にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていった。世界の常識では当たり前の、力の原理に物を言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのである。これは世界的に見ても極めて特異なことであるが、すると、支配階級(葛城)の側も力で制圧するのではなく、縄文人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活が第一という意識が形成されてゆく。
かつ、葛城は中国での長きに亙る戦乱を戦ってきた勢力である。彼らの敗北総括として、正面戦という方法論はたとえ勝ったとしても国力が疲弊しマイナスばかりで旨みがないことも骨身に沁みているはずである。
だからこそ、朝鮮半島から加耶(崇神)や百済(応神)がやって来た時も、彼ら後発勢力を奉って、実権は自分たちが握ることを選んだのではないか。
これが「大国主の国譲り」の真相ではないか。
つまり、日本の支配階級のうち、
「民の生活第一」という意識を形成したのが呉発の葛城であり、
それに対して
属国根性の塊であったのが後発の朝鮮半島発の支配階級(加耶・百済勢力)だったのではないだろうか。

【8】その後、葛城勢力は関東を中心に土着していったようである。
埼玉の久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団での勢力範囲と一致していることから考えて、葛城→その軍事部門である物部が後の関東武士団の源流である可能性が高い。

List    投稿者 staff | 2012-12-03 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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