2012年03月08日

江戸時代の思想5 日本の現実(共認体質→秩序収束)と儒学観念との断絶に直面した儒学者たち

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1748年頃の「朝鮮通信使来朝図」
画像はこちらからお借りしました。
「江戸時代の思想3」では、次のような提起をしました。
共同体が解体された中国における地主⇒科挙官僚の正当化観念(儒学)を、共同体が残存し共同体質が色濃く残る日本の徳川体制下で、一部の知識人が真剣に学び始めたことにある。
つまり、共認の土壌が全く違う日本に、儒学という観念だけが輸入されたわけである。
その結果、どんなことになっていったのか? 
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共同体が解体された中国における地主⇒科挙官僚の正当化観念(儒学)と、共同体が残存し共同体質が色濃く残る日本の徳川体制下の現実は、大きく断絶していたらしい。
●まず、朝鮮の科挙官僚は日本をどう見ていたか?
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)「第2章 泰平の世の武士」より要約。

「士」は、東アジア世界(中国・朝鮮)においては、徳行ある君子という意味である。天下国家に想いを馳せる知識人(読書人)ということであろう。
自分一己の満足を求めるだけでは「士」とは言えないので、どれほど現実政治から疎外されていても、「仁」の実現を理想として掲げなけれはならない。
知識もまた、全体への視野をもたない専門知・技術知ではなく、人格的な「徳」に結びついた人文的・古典的な教養であり、そういう教養を体得した読書人は「士大夫」と呼ばれる。
江戸幕府は、朝鮮王朝と正式の通交(国交)関係を結んでいた。ちなみにオランダや清との関係は、それより位置付けの低い通商関係である。
朝鮮からは、江戸時代を通じて一二回の正式の外交使節団、朝鮮通信使が日本を訪れている。1719年の通信使の製述官申維翰の紀行文『海遊録』では、日本の説明として、「国に四民あり、日く兵農工商がそれである。士はあずからない」と述べられていた。「士」という自負をもつ申維翰からすれは、日本に「士」はいない。また、「儒者は、学ぶに詩文をなすが、科挙試による仕進の路がない。ゆえに、ようやく声誉を得たところで、各州の記室にとどまる」とあり、科挙の制度がないから、儒教を学んでも、せいぜい公文書の起草や管理を任されるくらいのところだと云うのである。こうして儒者が権力から遠いところに置かれるということは、日本の秩序が「文」や「徳」(学問や道徳)に拠っているのではないことを意味しているというのである。
街道筋や町中で、朝鮮通信使を見物する群衆が整然と秩序だっていて、「一人として妄動し路を犯す者がない」ことに注意しながら、申維翰は、それをこう分析している。
これは、礼教があってかくの如くに治まったものではない。国君(将軍)と各州太守(大名)の政がもっぱら兵制から出ており、大小の民庶が見て習ったのも、一に軍法の如きものである。
 秩序だって見える日本社会の構成が、「文」や「徳」とは無縁の軍事的な性格、「士」を必要としない野蛮さで支えられていることを言っている。礼教の国(小中華)自負する「士」の日に、日本には「士」がいないと映ったのである。

朝鮮の士大夫(地主→科挙官僚)からすれば、日本の武士は仁徳で以て民を治めているのではなく、武力で支配していると映ったのである。
江戸時代の日本の民衆に一人として妄動し路を犯す者がいなかったのは、共同体質⇒秩序収束の故である。ところが、儒学(朱子学)を絶対と思い込んでいる朝鮮の科挙官僚である朝鮮通信使には(自分たち民衆から収奪を繰り返しているにもかかわらず)そのことが理解できなかったのだろう。
このことも、科挙官僚の正当化観念と日本の現実に、大きな断絶があったことを示している。
●徳川家康は朱子学を官学として振興したというのは嘘である。
『概説日本思想史』(編集委員代表佐藤弘夫 ミネルバ書房)
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)「第五章 魅力的な危険思想-儒学の摂取と軋轢」によると、真相は次のようなものらしい。

家康が朱子学者林羅山を登用したことをもって、朱子学を官学とした(儒学を振興すべきだと考えていた)という話は、後に林家が作った神話であり、幕府成立当初の事実ではない。朱子学が官学となったのは、松平定信の寛政異学の禁以降のことであり、この神話は林家の正当化のためにすぎない。
しかも、異学の禁を命じた老中松平定信自身が朱子学の信奉者であったとは言い難い。当時も「越中様(定信)は、実は荻生徂徠学だが、表向きは朱子学を装っているに過ぎない」と噂されている。
幕府や藩は儒学者を召抱えたが、その博識や漢文の読解力、文筆能力を利用しようとすることが多かった。幕府に仕えた林羅山の場合、外交文書や諸法度の起草、歴史書の編纂などに携わり、また百科事典代わりとしての役も果たしていた。これは室町幕府が僧侶を用いたのを引き継いだものである。
寛政異学の禁の冒頭に「朱学の儀は慶長以来御代々御信用の御事」とあるが、家康をめぐる事跡の中にはこの根拠は見出せない。儒学の中で特に朱子学だけが、当初から幕府に認められていたわけではない。伊藤仁斎や荻生徂徠をはじめとする朱子学批判が増えていったので、林家をはじめとする朱子学信奉者がその批判に対抗するために、朱子学=官学と強調されたのである。
林羅山の言葉によれば、徳川家康は儒学的「放伐論」に好意を持ったようである。確かに豊臣家を滅ぼした家康にとっては、自分を周の武王などに類比すれば悪い気はしなかったのかもしれない。しかし、本当に儒学を官学として振興するつもりがあれば科挙を採用するはずだが、科挙は採用されなかった(採用すべきという主張すらなかった)。

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「山鹿素行」
●江戸時代、とくに初期は儒学(者)は蔑まれていた
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)「第五章 魅力的な危険思想-儒学の摂取と軋轢」によると、

江戸初期には、武士が書物を読むこと自体が奇異であり、漢文の儒学書を読んでいれば、「武士のくせに」とあざけられた。
「知恵伊豆」の異名で有名な敏腕老中、松平信綱(1596~1662)は、「昔の異国の教えなど役に立たない。四書五経を読むより代々の御家の尾法度を知った方がよい」と語っている。
儒者の数も極めて少なく、熊沢蕃山(1619-1691)は晩年の書で、「日本国中をかぞへてわづか数十人に過ぎざる儒者」と書いている。仏教の組織・信者に比べると、儒者は比べものにならない弱小勢力であった。
儒者には町で塾を開き授業料で生活する町儒者と、幕府や将軍に仕えて禄を食む御儒者に分かれるが、町儒者の生活は苦しく、御儒者でさえ禄の相場は大名の家来で言えば、下の上くらいである。
召抱えられた御儒者も主流の武士ではない。殿の学問の相手をし、御家の記録の編纂・書物の調査などを命じられるという生活である。殿様が統治の政治の相談を持ちかければ政治顧問ということになるが、儒者風情が政治に口を出せば、本流の武士からは反発が出る。「儒者料簡」という言葉があり、儒者の思いつきは一見、理屈は通っているようだが実行すれば害になるという意味であるが、日本の儒者は、そのような視線が向けられていることを意識せざるを得なかった。
同じ儒学を奉じながらも、官僚でも地主でもない点で、中国の士大夫や朝鮮は両班と異なる。貴族の庇護を受けていた近世欧州の知識人とも違う。
お上の法度も世の風俗も、その現実は儒学の教えとは大違いである。敵意・警戒・軽蔑・冷笑の目を意識しつつ、儒学を説く必要があった。
一方で科挙の標準学説を教える必要もないので、朱子学によろうが陽明学によろうが、双方を批判しようが問題にされなかった。将軍も大名も、経書解釈としてどれが正しいかなどということには、関心がないからである。
つまり、儒学者たちは権力から疎外されていたが故に自由だったのである。
不安定な少数派の立場にあって、儒学の教えと日本の現実との落差と権力との結合の難しさを感じた日本の儒学者たちは、独特の思想的場に置かれていたのであり、時には死に物狂いの思想営為をすることになった。特に、江戸時代の前半、儒学は百花繚乱の思想展開をする。
例えば、貝原益軒(1630-1714)は「日本は武国なのであって、唐土の道(儒学)は日本の風俗に合わず、功を成しがたい」と語っている。
兵学者でもあった山鹿素行(1622-1685)は、朱子学・老荘や禅仏教まで学んだが、「実は世間と学問は別のこと」になっていることに悩んだ。そして、結局、「武士の作法」「武将武士日用の業」を修めて功を立てることが、真の学問(聖学)だと考えるに至った。武士として武士らしく必要な軍学・兵学を学べば、それで聖学を学んだことになるというのである。
このように、儒学によって現実(武士)を変えるのか?それとも現実(武士)に合わせて儒教を変えるのかが日本の儒学者たちの問題となった。

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「林羅山」
幕府に召抱えられた林羅山(1583~1657)などは、現実(世間)と妥協しながら、「俗世界において、俗の心になるのではない。外は俗習に従いながら内には儒の心を保つ」という処世術を身に着けていた。
この林羅山の処世的な生き方は、次の世代の儒学者(中江藤樹、山崎闇斎、山鹿素行)にとって、自己の主体的な修身をないがしろにしているものとして反面教師でさえあったらしい。つまり、「林羅山のような処世的な生き方は儒学者にとってはありえない」ということである。
この林羅山の処世的生き方は理想主義的な朱子学の挫折とも云えるが、共同体が解体された中国における地主⇒科挙官僚の正当化観念(儒学)と、共認体質によって自ずと秩序が保たれていた日本の現実は、大きく断絶していたことを示している。
このように、現実と観念(儒学)と断絶を前にして、儒学たちは、あくまで儒学に立脚して現実を否定するか、それとも現実に立脚して儒学を変えるかという問題に晒され、様々な思考を繰り返すことになり、様々な派が登場することになる。
それでも、武士の間でさえ、17世紀中に徐々に儒学への関心は高まっていった。その中には少数ながら大名もいた。尾張藩の徳川義直、岡山藩の池田光政、会津藩の保科正之らである。
さらに、五代将軍徳川綱吉(1646~1709)が儒学好きだったことの影響が大きく、その後、儒学の知識が武士の間ですら、徐々に広がってゆく。
大名が家来に儒学を学ばせる藩学・藩校を作るようになったのは、江戸幕府成立から200年近くも経った18世紀末頃の事である。
また、17世紀末頃以降、町人・農民のうち豊かな者が子供を寺子屋や塾に通わせるようになってゆき、その中の極一部ではあるが、豊かな町人・農民が遊芸の一つとして漢詩文や儒学を学ぶこともあった。
こうして、江戸幕府成立から100~200年経って漸く、儒学観念が武士階級に受容されていった。
「天下泰平で秩序安定期待が衰弱し、民の生活を忘れていった武士階級」にあるように、泰平の世の中で武士たちの役割不全を、儒学観念による「士」の誇りで代償するためであろう。
つまり、泰平の世で社会的な期待や役割を喪失した武士たちを観念統合するために儒学が必要だったのである。その代表が五大将軍徳川綱吉であろう。
一方で、庶民の期待は江戸時代に入って100年もすると、秩序安定期待から豊かさ期待に変わってゆく。
このことは、庶民の社会的期待と儒学で観念統合された武士との断絶がますます大きくなってゆくことを意味する。
つまり、武士階級は支配者の正当化観念である儒学に頭を支配され、ますます庶民の期待から乖離してゆくことになる。
この武士階級と庶民との断絶こそ、17世紀までは磐石であった幕藩体制が18世紀以降、動揺し始めた理由なのではないだろうか。そして、尊皇攘夷をはじめとする反幕府思想が登場する土壌になったのではないだろか。
つまり、日本の現実から断絶した儒学観念を武士が学び始めたことが、(黒船来航以前の)幕藩体制動揺の原因ではないかという仮説である。

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コメント7件

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