2013年01月30日

天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

 いままで十数回にわたり天皇制国家の源流を追求してきました。ここで、いままでのまとめを行いたいと思います。ちょうど年末のなんでや劇場で、日本の闇勢力について追求が行われました。その内容も併せて、四回程でまとめてみたいと思います。
まず、古代以前のユーラシア大陸の状況からです。
●北方モンゴロイドの南下
・5万年前~2.1万年前、極寒化で北方モンゴロイドは小部族で南下。シベリアは無人状態に。
・2.1万年前~1.3万年前、温暖化で人口爆発し、モンゴル平原に北上。アルタイ系3祖族を形成(新モンゴロイド)。父系集団で垂直的な上天信仰、熊神信仰、冬祀りetcの文化。
・1.3万年前、急激な冷え戻りで、南下。チュルク族は西方に、モンゴル族は南方に、ツングース族は東方に拡散。(下図参照)

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(画像はリンクよりお借りしました)

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・6千年前~4千年前、中央アジアの乾燥を契機にアーリア族による略奪闘争が発生し、東西に玉突き的に伝播。アーリア族→チュルク族→モンゴル族→ツングース族と玉突き的に急激な移動・拡散が起こる。
チュルク族は、早くからアーリア族と混融。馬と金属の文化で、西アジアから地中海、あるいは東欧・ロシアにまで分布。
モンゴル族は、東アジアから中央アジアに広域に拡散。北方は遊牧を続け、南下した部族は農耕に転換。
ツングース族は、極東で長く狩猟を維持(馬とトナカイを飼い慣らす)。モンゴル族と混融。シベリア・満州・朝鮮の源流。
・3.5千年前、モンゴル族が殷を建国。3.1千年前、チベット族が周を建国。

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☆日本には3~1万年前から、主に南方のスンダランドから列島にやってきた人々が縄文人を形成、そこに新たに大陸の戦乱から逃れた江南人がやってきて弥生人が生まれます。
●縄文人+江南流民=弥生人
 日本人の基層を成すのは縄文人であるが、2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人の一部が日本列島に亡流した。彼ら江南流民は、何れも少人数で、周りの縄文人に受け入れられ、混融していった。これら少数の江南流民と縄文人の混血を弥生人と呼ぶことにする。
 彼らは2400年前~2200年前までに、九州、出雲、北陸、あるいは瀬戸内、高知、尾張、紀伊、伊豆に国を作っていった。=弥生人の小国。
 ここで、倭人について触れたいと思います。倭人とは、日本史では古代の日本人そのもののように言われていますが、明らかに間違いで、上記の中国南方からの流民(江南人)を指しています。日本列島に流れ着いたのは一部であり、その主力は朝鮮半島へ流れ着いていました。
●倭人とは江南人(呉・越・楚人)
 倭人とは、2500年前~2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民である。2480年前の呉滅亡→呉人が弁韓へ、2340年前の越滅亡→越人が馬韓へ、2235年前の楚滅亡→楚人が辰韓へ(いずれも一部は日本列島へ亡流)。
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〔呉・越・楚の滅亡と遺民(倭人)の移動〕(図版はリンクよりお借りしました。)
 倭人が江南人のことであることの証拠に、中国からみた倭(人)の範囲が時代を追うにつれ南に下がってゆく。
 最初、中国は南朝鮮全体を倭と呼んでいたが、百済・新羅国家が形成されると、国家が形成されずに部族連合として残った伽耶を倭と呼ぶようになり、伽耶滅亡後には、倭は日本列島だけを指すようになった。
 魏志倭人伝の時代は主に伽耶の倭人が活躍していた時代であり、そこで登場する倭は日本ではなく、朝鮮半島にあったのである。高句麗の広開土王が戦った倭も朝鮮半島の伽耶のことである。
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☆倭人は、朝鮮半島で水田稲作を始めていました。そこに稲作民を支配する様式を持つ北方部族が南下して、国家を形成し始めます。
●倭人+扶余族=韓人
 朝鮮半島では、これら江南流民がほぼ原住民=倭人であるが、後に朝鮮半島へツングース族(一部モンゴル族)が南下する。後から侵入してきた扶余族との倭人との混血を韓人と呼びます。
1.2300年前、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。つまり、三韓とは、扶余族が韓倭人(呉・越人)を服属させた国である。扶余族と倭人(呉・越人)が混血したのが韓人である。
2.2235年前、秦に強制移住させられていたモンゴル系部族(スキタイとも混融?)が大量の楚人と共に脱出・南下。辰国(中心が馬韓)から東部の辰韓を割譲してもらい、これを支配。
3.1950年前、別の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
 新羅は、百済=扶余族に従属するモンゴル系部族が江南流民(主に楚人)を支配した国である。新羅が扶余族ではない証拠に、新羅はシベリア・スキタイ系文化の色彩を帯び、言葉も扶余系とは異なる。従って新羅には「王は神で、他の姓は替れない」という扶余族の現人神(天孫降臨)信仰はなかった。
 秦の長城建設の為に強制移住させられていた楚人とモンゴル族(スキタイ族?)が、モンゴル族に率いられて脱出し、極東を東端まで横断した後、日本海沿岸を南下して慶州平野に進出した。中国「辰韓伝」によると、馬韓が脱出してきた民に、馬韓領土の東部を割譲したとあり、辰韓は馬韓に服属することで成立した。

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〔秦帝国と万里の長城、朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島の辰韓を形成 〕
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☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。(続く)

List    投稿者 ihiro | 2013-01-30 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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