江戸時代の思想10 市場拡大に歯止めをかける制度を構想した荻生徂徠の思想
今回は、江戸の市場拡大による共認破壊と秩序崩壊に危機意識を抱き、市場拡大に歯止めをかける制度を構想した荻生徂徠の思想を紹介します。
彼は、社会を統合するには、朱子学のような「理屈」は役に立たず、より具体的な「制度」こそが必要だと提起しました。
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『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
『日本政治思想史 十七~十九世紀』(渡辺浩著 東京大学出版会)を要約紹介します。
(画像はこちらからお借りしました。)
①荻生徂徠による朱子学批判⇒制度共認によってはじめて秩序が保たれ、制度に則り生きることが道であるという思想。
■荻生徂徠の経歴は?
荻生徂徠(1666年~1728年)は、後に将軍となる綱吉の侍医を父として江戸に生まれた。父が綱吉の怒りをかい、一家は徂徠14歳の時、江戸払いとなって上総の地に逃れた。許されて江戸にもどったのは、25歳の時とされる。
仁斎の思想が、若い日の長い精神的苦悶なしには成立しなかったと同じく、徂徠の上総体験も、その思想を形成するバネとなった。徂徠自身が、上総体験なしには自分は単なる秀才で終わっていただろうと述べている。
■徂徠は、何を思想的な課題としたのか?
徂徠は、若い日の上総体験の意味を考え続けたのではないだろうか。大都市江戸の繁栄と膨張を外側から見た徂徠は、すべての存在に意味を与えながらそれを包摂する、あるべき文明の形(古代中国の聖人の世界)を発見することで、人々の多様性を見失うことなしに社会の全体を枯想するとはどういうことかを問い続けた。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
●徂徠の思想の根幹
荻生徂徠の思想の根幹は、ときに「近代的」と呼ばれる立場の逆、ほぼ正確な陰画である。すなわち歴史観として反進歩・反発展・反成長である。そして、反都市化・反市場経済である。個々人の生活については反「自由」にして反平等であり、被治者については反「啓蒙」である。そして、政治については徹底した反民主主義である。そういうものとして見事に一貫しているのである。
『日本政治思想史 十七~十九世紀』(渡辺浩著 東京大学出版会)
■朱子学批判~道とは聖人がつくった制度である
「道」とは何か。徂徠は、「道」とは「大」なるものだと言う。こういう捉え方は、それは天人を貫く真理であるとか、人間としての正しい生き方だというような内容的・実体的な定義とはまったく質が違っていて、ここに徂徠らしい「道」への向き合い方がある。
「道」は、「天下を安んずる」ために先王(中国古代の聖人たち)が建てたもので、その礼楽制度の全体を指す総称なのである。これは、朱子や仁斎の議論に慣れた人たちにとって、驚くべき発言だった。自然や宇宙の秩序、そして一人ひとりの道徳性や生き方からも切断されて、「道」は、長い時間をかけながらも歴史的にある時点で、ある目的のために、ある特定の英雄によって作られたものだと断言されたからである。
聖人たちは、それぞれに「天」から聡明叡智の才徳を受け、文字を作り、農耕を教え、住居を建て、医薬を授けて、人々の生活を〈文明〉に導いた。次に、儀礼や式楽を定め、政治的な制度を定めた。こうして、人間らしい美しい秩序ある社会がもたらされた。社会に分節と統合をもたらす装置が「札束刑政」(端的に言えば「札束」)であり、「礼楽」が〈文明〉の本質をなす。
古代中国では王朝が成立する時、その開国の君は、その後の数百年にわたる人情や風俗の変化をあらかじめ洞察して、人情や風俗の急激な堕落を前もって制御するように「礼楽」を作っておいた。それが、先王の「道」である。その「礼楽」世界では、君子はゆったりと「礼楽」を実習し体得することで個性的な才能を磨き、ゆくゆくは政治的役割を分担して「安民」(民を安んずる)のために能力を発揮する。それは、画一的な道徳家を作るのではない。
そして、個性的な才能を配苧活用し、それらの総和として「安民」を達成するのが、君主やそれを補佐する老の固有の職責である。小人(民衆)は、家族や地域の中で素朴な徳(例えば「孝」)を育みながら生活を営んでいく。あらゆる人が、相応しい場所にあって、担うべきものを担い、その協同として社会が穏やかに営まれる。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
※徂徠の捉えていた『道』とは、「人の道」といった道徳的なものではなく制度のことである。その制度に則って生きることが『道』だと考えていたのである。
※徂徠は、江戸の市場拡大によって人々の共認がどんどん希薄化してゆくのを見て、このままでは秩序が崩壊すると強い危機感を持ち、思想を構築しはじめる。市場拡大に歯止めをかけ社会を統合するためには「朱子学」のような理屈は全く訳に立たず、より具体的な「制度」を作っていく必要があるという課題意識が思想の根幹になっている。
②では、荻生徂徠が構想した制度は、どのようなものだったのか?
■『政談』
徂徠にはもうーつ、重要な著作がある。将軍吉宗の諮問に応えて書かれた『政談』がそれで、この書物ほど、江戸の社会体制のありようを根本から論じたものはない。社会観察が細かく、その細かに捉えられた墳末とも思える事象が、いずれも社会の深部で進行している大きな変化に由来する只ならぬ問題の表出であることが解明されていく。『弁道』や『弁名』でなされた徂徠の理論構築の土台には、こういう社会観察がある。現実分析と理論構築を往復する頭脳、現実に鍛えられた問題意識を古典解釈に投げ返す知性として、徂徠は、江戸の思想史において際立っている。
徂徠は、江戸の社会が、綱吉の治世の頃(元禄期)から大きく変容していることに着目する。貨幣・商品・市場の力が浸透して、伝統的な人間関係が、人々の気付かないうちに解体を始めた。都市でも農村でも、武士社会でも町人社会でも、この趨勢は止まらない。譜代の関係が、いつのまにか金銭を媒介とした短期の契約関係になっていて、それが気苦労のない快適なものだと意識されている。世話を焼くとか面倒を見るという人格的な関係は煩わしいものとされ、他人に気を配ること(他人から気にされること)を忌避するようになる。こういうあり方を徂徠は「面々構」という印象的な言葉で表現した。
このように現実を捉えた徂徠は、まさに「道」を根拠として、その全面的な制度改革を吉宗に訴える。
武士が都市生活者となったから、箸一本でも金で買うことになり、貨幣・商品・市場の力が増長した。また、武士が農村からいなくなったことが農村の治安を悪化させ、武士の統治責任を曖昧にさせている。武士は、その発生からして在地の着であり、民を、親が子を養い育てるように世話しなければならない。そういう濃密な関係が社会の根底に確固としていないと、社会は貨幣・商品・市場の力によっていいように蝕まれていく。
武士の土着によって、希薄化(匿名化)した人間関係の進行に歯止めをかける。その上で、古代中国の先王が行ったように、王者としての徳川将軍が、人情・風俗の変化をあらかじめ読み込んで「礼楽」の制度を立てるべきなのである。眼前の制度や礼楽は、一見すれば整っているようにも映るが、それらはすべて惰性としてそこにあるばかりのものである。
本来ならもっと早く、元禄期の激変の前に制度が確立されることが望ましかったが、まだ最後のチャンスとしての可能性はあると徂徠は説く。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
※徂徠の『政談』は、徹底した「反市場主義」に貫かれている。市場化の流れで秩序が乱れていく江戸の様子を見て、「武士は農村に帰ってしっかりと農村をおさめよ」といった提起や「身分に対応して、衣食住・冠婚葬祭の儀式・行列まで、すべて何をどう使うかまで決めてしまう」といったディテールまで作り込んだ制度提案を行った。
③制度設計をするためにも、過去の歴史を遡って歴史的な制度とその成果度を研究していく必要がある。
●わざと陰謀
民の「安穏」を実現するのは、言語による説得ではない。人格による感化でもない。それらはいずれも不可能である。そこで、徂徠によれば、六経とは「物」すなわち古の諸制度の記録であり、『礼記』『論語』はその「義」(意味・意図)の説明である。この「物」は「わざ」とも言い換えられる。「わざ」とはしわざ・しかたである。具体的な行為の型である。それに沿って行動することによって、「心」が変えられていく。「わざ」「物」の仕掛けによる統治は、個々の統治者の能力によって左右されることが少ない。その「制度の力」でかつてはよく治まったというのである。
統治を安定「開国太祖」として、その王朝・その子孫の存続を願うなら、民がその生に安んずるような巧みな制度体系を構築する他ない。「制度の力」に頼むほかない。つまり、「聖人」に不合理な自己犠牲の精神を想定する必要はない。何故か「人情の常」を超越した偉大な善人が、古代にのみ出現したなどという非歴史的な主張は徂徠はしない。「聖人」の自己利益と人民の利益が一致する以上、「聖人」はただ異常に聡明であればよい。逆に暴虐な君主は、不仁ある以上に愚かなのである。
●循環
徂徠は、中華古えの「聖人」達が建立した制度体系を「道」とし、人類共通の統治の模範と考える。それは、単に彼等を信仰するからではない。中華古えは、統治が比類なく成功したという否定できない歴史的事実があるからである。現に、聖人が開いた三つの王朝、夏・殷・周の三代は、安定して極めて長く続いた。それ以降は、それに倣う他はないのである。
そして、漢・唐・宋・明は、いずれも300年続いた。これは、開国以来の制度が概ね「聖人の道」に沿っていたためである。一方、日本では、唐から学んである程度「聖人の道」に則ったために、公家の世は約300年続いた。そして、その後、天下は武家の手に渡った。しかし、鎌倉の世は僅か100年で終わり、室町の世も100年で大いに乱れた。徂徠によれば、それは「何れも不学にて、3代先王の治に則ることを知られ去る故(政談)」である。
しかし聖人が建てた王朝も結局は滅んだ。それはなぜか?
①人間性が不完全だからである。
太平が続くとどうしても多化が進む。その結果物価が上昇し、やがて上下とも困窮して犯罪が増え、乱世に向かっていく。しかも、上にあるものは、苦労に鍛えられることもない。それ故に、逆に下にある者の方が賢くなっていく。こうして太平の安定自体が、不安定になる要因を育む。
②資源が有限だからである。
徂徠は、この有限の天地において無限の「発展」や「成長」が可能だなどという陽気な楽天主義はとらない。それ故、太平によって消費性向が高まればいずれ物不足となり、物価が上昇し、困窮するのである。かくして、いかなる王朝も、このサイクルを結局はたどって滅ぶ。徂徠によれば、それは人体と似ている。生まれ、盛んな時期を迎え、そして老い、やがて死ぬ。その意味で「聖人の道」にも限界はある。しかし、聖人の道はいわば模範的な体質・体型であり、これに似ていれば長寿であり、そうでなければ早くから病が生じて死に向かうのである。
■歴史を学び、今を相対化する
徂徠は、現実の社会にせよ、古の「道」にせよ、大きくその全体を見渡すことのできた思想家であった。その認識論的な根拠として、その個人史からすれば、若い頃の上総体験があることは疑えない。江戸に帰って徂徠は、その変化の激しさに驚くとともに、そこに暮らす人々がその変化に無自覚であることに、より驚いた。こうして、一つの世界(城や砦にめぐらせた囲いである「くるわ」、徂徠はこれに替える)の内にいる人間には、その世界の全貌・本質は見えないということを痛感する。経験が、自身によって客観視されないからである。では、「くるわ」を出るにはどうしたらよいのか。徂徠の答えは、どこまでも「物」に即「愛の理」ではなく「愛」である。
※制度設計するために、過去上手く行った歴史制度に学び、それを現代に照らすとどうなるか?と考えたのが荻生徂徠である。
●共認に立脚した思想を構築しようとした伊藤仁斎と荻生徂徠
同時代の京都町衆の中から登場した思想家伊藤仁斎は、市場を前提とした上で「共認」の土台となる充足・肯定性といった「心の在り様」を大切にし、それを共認統合⇒社会統合の原点として観念化していった。
一方で荻生徂徠は、江戸の市場拡大が人々の共認と秩序を破壊してゆくことに危機意識を抱き、市場拡大に歯止めをかける制度を構想した。
つまり、伊藤仁斎が共認の土台である充足性・肯定性を観念化したのに対して、荻生徂徠は共認を規定する制度を構想したのである。
・しかし、社会空間は常に評価共認⇔評価競争の圧力で満たされ(その評価圧力によって人も、行為も、生産物も、全てが常に淘汰され)るだけではない。その評価共認によって規範や制度や観念の共認圧力(注:これを固定圧力と呼ぶ)にも満たされる。この様な共認圧力(評価圧力や固定圧力)で満たされた社会空間の中では、個人や集団の思考や行動は、その共認圧力(注:これを社会圧力と呼ぶ)によって強く規制される。
従って、人々の外識機能は、必然的に個人や集団を超えた社会圧力の把握へと先端収束する。換言すれば、人々の外識機能は個人や集団を超えた最先端の状況認識へと収束する。
(「社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力」)
・最先端に位置する観念(言葉や文字)は、その一つ一つが下部意識にとっての羅針盤の役割を果たしており、定着度の高い不動の観念が下部意識を支配する力は極めて強力である。従って、観念内容を誤れば、人類は滅亡する。
(「大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機」)
(おそらく、荻生徂徠は制度を誤れば日本は滅亡するという危機意識まで抱いていたのではないだろうか。その傍証として、将軍吉宗にも「武士は土着せよ」献策している。当時としては命がけの献策であり、このことは荻生徂徠が相当な決意性を以て追求していたことを伺わせる。)
そしてこの二人の思想家に共通していることが3つあり、これらが「新思想」形成の幹となっていた。
①朱子学と既成観念は、現実社会に全く役に立たないという認識。
②過去の歴史にさかのぼって、目先ではなく根本追求してゆくという姿勢。
③伊藤仁斎は共認機能の原点である充足性と肯定性、荻生徂徠は共認を左右し秩序を形成する制度というように、違う角度からではあるが、両者とも共認統合の構造を捉えている。
☆それにしても、同じ17世紀に、西欧では市場拡大⇒近代思想という「自我」に立脚した思想が形成されたのに対して、日本では「共認」に立脚した思想が形成されようとしていた点は注目に値する。それを可能にしたのは、日本人の縄文・共同体質にあることは間違いない。
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