共同体発の自治意識とカルテル主義発の自治意識
スイス人はなぜ自国を愛せるのか
より、スイス人も日本人と同じように、自治意識が強いことがわかってきました。
ですが、スイスの自然環境や、傭兵産業で国を支えていた歴史を振り返れば、日本が共同体性発の自治意識であるのに対し、スイスはカルテル主義(契約関係)発の自治意識であると言えるのではないでしょうか。
〇カルテルとは
カルテルとは、、(リンク)
>市場独占を目的として協定、または契約によって結合される企業連合をいう。
>第一に、カルテルは独立した企業間の協定による結合であるから、カルテルに加盟した企業間の利害の対立によって内部崩壊する危険をつねにはらんでいる。
〇スイスのカルテル体質とは
(リンク)
スイスの自由主義は、個人主義的自由主義というよりは、団体自治主義的な特質を持つ。
多くの社会集団はコンセンサスと永続性・安定性を重視する人間関係で組織されている。 その経済的表現は、多くの業界に存在するカルテルや自主規制である。これらは通常の契約関係と解され、その制限は取引の自由の侵害であるとみなされてきた。
また経済規制とは対照的に、環境や景観といった分野では強い公的規制が存在するが、これもまた、団体自治原理に基づく地域社会内の相互規制の表現であろう。市場原理の強さが目立つスイス経済の中で、極端な例外となっている農業保護主義も、その背景は、食料安全保障への執着と自治主義と関連する環境への配慮であり、これもスイス・モデルの 1 つの表現である。
以上のことから、スイスは自然に対しても、カルテル主義的=敵から奪われないように、自国のものとして守る。という団体主義意識が根深いことがわかります。
〇日本人の自然と一体化する体質
(リンク)
福島要一(自然保護とは何か、時事通信社、1975)
「もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に『自然』を求めても、それは見当たらない。それは、古代の日本人が『自然』を人間に対する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。自分に対する一つの物として、意識のうちに確立していなかった『自然』が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。」
野中涼(環境問題と自然保護-日本とドイツの比較、1999)
「日本人は長い間、この世界をただ主観的に、個別的に、無数の個体の集合としてとらえる傾向が強かったので、「自然」というすべてを総体的にとらえる抽象語を持たなかった。「天地山水」とか「山川草木」や「すべてあめつちの間にある事」などと呼んでいた。自然を客体化させ、それにヨーロッパ語の”Natur”や”Nature”に相当する用語としての「自然」を当てて使うようになったのは、ヨーロッパの科学文化の衝撃を受けた1900年前後のことである。」
上田哲行(トンボと自然観、2004)
「カミ・ヒト・自然の三者の関係を考えてみる。西欧的(おそらくキリスト教的)世界においてカミ・ヒト・自然はそれぞれはっきりと区別される別個のものとして存在する。
一方、日本人の根底にあるとされる古神道的自然観、といっても良いのかどうか心許ないが、まぁいわゆるそのような世界における三者の関係は曖昧である。」
以上のコメントからは「日本人は、自然と一体であったが故に、”自然”を別個に対象化・言葉化していなかった」ということがわかります。すべてを大局的にとらえ、その中に身を置く自分も一体として考えていたようです。自分(個)という認識がないので、自分に対して利害の判断ももちろんありません。
共同体発の自治意識、カルテル主義発の自治意識、どちらも結果的に国を守る、自然を守るものですが、全く出所が異なるのです。
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